飛び出した引退説
鈴木も同作によって大ブレイクを果たした。放送終了の翌月、1991年4月に行われた単発ドラマ『五月の風』(同年5月、日本テレビ系で放送)の制作発表には、主演の彼女を目当てに200人もの取材陣が詰めかけた。
だが、彼女のドラマ出演はこのあと、翌1992年1月にスタートした、やはりフジテレビの木曜劇場『愛という名のもとに』まで途絶えた。この間、わずか半年あまりとはいえ、引退説まで飛び出すほどだった。
ちょうどこの時期、彼女が女性誌で応えたインタビューの冒頭で、《今の私って、やりたかったことが思ったより早くできちゃって、やることなくなっちゃったって感じなんです》と語っていたことも誤解を招いたのかもしれない。もっとも、彼女は続けて《TVゲームでいえば、一面をクリアーして、ちょっと一服してから二面にいこうかなっていうところなんです》とも述べていたのだが(『non-no』1991年8月20日号)。
このインタビューではまた、鈴木が自身が人気を得た理由について次のように冷静に分析していて興味深い。
《私、瞬発力の人なんです。カチンコとカチンコの間だけ。ふだんまでその人になりきって染まってしまうことはないし、芝居芝居してやってるわけでもない。だから、受けたとしたら、できてる人間性じゃなくて、できてない人間性の部分だと思うんですよ。オーディションで素人を使うことに近いんじゃないかな。テクニックがないところが逆に新鮮だっていうような》
「マイペース女優」「モラトリアム女優」と呼ばれ…
続いて主演した『愛という名のもとに』も最終回の視聴率が32.6%を記録する大ヒットとなったが、このあと再び休業に入り、翌1993年の『瀬戸内少年野球団』(フジテレビ系)で久々にドラマ出演する。連続ドラマへの出演にいたっては、1994年1月期の月9『この世の果て』まで2年間視聴者を待たせることになる。ここから「マイペース女優」「モラトリアム女優」などとも呼ばれた。
休業について本人は、《別に何かのコンセントレーションを高めるために休むわけではないんです。ただ、続けてやってもしょうがないというぐらいの事なんですけれど。(中略)やればできるかもしれませんが、忙しいと、それにかまけて、ひとつひとつをないがしろにしそうなので》と、初主演映画『ヒーローインタビュー』の公開時に語っている(『キネマ旬報』1994年9月上旬号)。
