その脇には広場があって、いくつかの鉄道車両が展示されている。この場所が、太子線の終点・太子駅の跡である。
すっかり公園として整備されている太子駅跡。その中でひときわ目立つコンクリートの巨大な塊は、ホッパーと呼ばれるものだ。上層部に鉱石を溜め込み、下層部に停まっている貨車にバラバラと落として積み込んでゆく。つまり、太子駅と太子線は鉱石の輸送で活躍した路線だったのである。
400人の囚人たちが突貫工事「脱線ばかり…」
ここで、太子線と吾妻線が開業したのはいつだったのかを改めて確認してみよう。
1945年1月2日。太平洋戦争が完全に泥沼にはまり込んでいた最中のことだ。当時の日本、戦局悪化で鉄鉱石の輸入がほぼ途絶していた。が、戦争遂行のために鉄は何よりなくてはならぬもの。なんとか国内で鉄鉱石を確保しなければならない。
そこで、群馬の山奥で発見されていた群馬鉄山の開発が急がれることになった。1943年6月に群馬鉄山の鉱業権を獲得した日本鋼管は、1944年9月までの開発完了と年産30万トンという当局からの無茶苦茶な指令を受けている。
無理が通って道理が引っ込んでいたのがこの時代。労働力も資材もまったく足りない中で、昼夜問わずの突貫工事がはじまった。朝鮮人徴用工を約300人、さらには前橋刑務所の囚人約400人も駆り出して、最後はどんぐり団子を食べながらの決死の工事。氷点下20度にまで冷え込む中でコンクリートを打つという、ワケの分からないことも強いられたという。戦争の時代がもたらした、ひとつの悲劇というべきだろう。
そんな工事もなんとか終わり、1945年1月2日からは群馬鉄山の鉱石が太子線・長野原線を通じて運ばれるようになった。が、突貫工事が祟って線路はガタガタで、脱線事故が相次いだ。おかげで貨車が滞留し、せっかくの鉱石もロクに運べなかったという。
なぜ廃線になったのか?
そうこうしているうちに戦争が終わる。そうなれば、群馬鉄山と太子線もお払い箱に……とは問屋が卸さない。





