戦争に敗れて何もなくなった日本にとって、国産の鉄鉱石が重要であることは変わらない。外貨が足りずに輸入も満足にできない中で、開発がすでに進んでいた群馬鉄山は大いに注目された。
群馬鉄山はほどなく操業を再開し、太子線も鉄鉱石輸送を本格化させてゆく。月に2万トン、戦後の20年間で約300万トン超。群馬鉄山は、釜石に次ぐ国内第2位の“鉄の町”として日本の戦後復興を支えたのである。全盛期には小学校や中学校の分校ができ、太子駅前にはパチンコ屋や居酒屋などが軒を並べて賑わっていたという。
だが、群馬鉄山で産出される鉄鉱石は硫黄分を多く含んでおり、そのままでは使い勝手が悪かった。そうした中で輸入鉱石が入ってくるようになると徐々に存在感が低下、1965年に鉄山は閉山。太子線も、鉱石輸送という原点たる役割を失ってしまう。
……のだが、ちょうどこの頃には草津温泉の観光地化が進みはじめていて、長野原線も鉱石輸送路線から行楽路線へと形を変えつつあった時代だ。1971年には大前までの延伸を果たして現在と同じ吾妻線に改称。その一方で、役割を終えていた長野原~太子間の太子線は、延伸と同時期に地図から消えたのである。
太子線の終点・太子駅——。ちょっとした観光スポットとして整備されてはいるものの、廃線跡はいくつかのトンネルや橋を残してほとんどが生活道路に変貌している。事前の情報なくして、ひと目で廃線跡だと分かる人は少ないだろう。観光客の数も、草津温泉など近傍の温泉地とは比べるまでもなく少ない。
それでも、戦争末期から戦後復興期という、いわば日本が最も苦しかった時代に「鉄鉱石の産出と輸送」という形で群馬鉄山と太子線が活躍したことは間違いない。草津温泉に向かう観光客で賑わう長野原草津口駅とは裏腹に、その跡地は静かに山あいの風に吹かれている。
撮影=鼠入昌史



