年間数百冊の本を購入しながら「10冊も読まない」と語る文学研究者。本棚をいわば「外付けの脳」として機能させ、未読の「積読」を最強の知性ネットワークへと変えるためのまったく新しい読書論。電子書籍では意味をなさない、本は物理的に持つことに意味があるのだ!

「勉強を手に入れたい」。そう願う人の背中を後押しし、着実に階段をのぼるための心構え・道具立てを可能にしてくれるエッセイ連載、第8回目です。

※本連載は『勉強を手に入れる』と題して書籍化される予定です

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積読と勉強の深い関係

 いわゆる積読については、「罪悪感を覚える必要はない」という励ましをよく見かけます。完全に同意なのですが、今回は積読についての考えを、ここからもう2歩くらい「勉強」のほうに進めてみたいと思います。

 わたしは職業柄、年間に数百冊の本を買いますが、そのうち10冊も読みません。そもそも「読む」つもりで買っていないのです。

 では不必要なのに買っているのかというと、もちろん、そうでもありません。さらに言えば、「手元に置いておきたい」から買っているのですらない。そういう参照目的で買う本も当然ありますが、今回の主眼はそこにはありません。

 今回は、わたしにとって「本」という物体の意味がどう変化していったか、その経験談をお話しながら、第5回でも触れた「知識網」という言葉にふたたび回帰したいと思います。ざっと「知識網」を復習すると、これは知識の量ではなく、知識が脳内でどのように有機的にネットワーク化されているかという話でした。

 結論は、本は知識網を作るために必要な物体である、ということです。ではいきましょう。

通読モデルから「参照モデル」へ――背表紙を見れば本の重要なページが思い出せる

 わたしは読書という行為に触れたのが非常に遅かったです。それゆえタイミングもはっきり覚えていて、高2の終盤のことでした。それまでに通読した本はほぼ皆無で、活字を読む経験は、基本的に学校の教科書にかぎられた人生を送っていました。

 なぜ高2の終盤に読書に手を出したのかというと、そのときに大学受験を決意したからです。大学受験といえば、勉強。勉強ができるやつは、どうも本を読んでいるらしい。だから本を読まなくてはならない。信じがたいほどの短絡ですが、このような思考回路でした。

 その次の行動も、いま振り返ると「なんでそうなる笑」という感じで面白いのですが、わたしが読んだのは新潮文庫の夏目漱石すべてでした。なぜ漱石を選んだかというと、国語の教科書で『こころ』を読んで知っていたからです。

 だいたい文庫では、同じ作家の本に番号が振られています。わたしは1番の『吾輩は猫である』からはじめて、愚直に順番に読んでゆきました。しかしまあ、読書経験ゼロから、よく漱石で頑張ったものです。

夏目漱石『吾輩は猫である』(新潮文庫)

 ともあれ当時、わたしにとって「本」は神秘的な物体でした。1冊1冊を大事に通読し、それを本棚に並べてゆくことで味わった、静かなスリルと満足感をいまでも覚えています。通読した本が増えてゆくことは、すなわち知性の向上の証左でありました。

 わたしのこうした感覚は、しかし、読書の入門者にしては、かなり早期に捨て去られることになります。なぜなら、関東で浪人生活を開始して、受験参考書を大量に買うことになったからです。

 わたしは参考書が大好きで、かなり買い込むタチでした。受験勉強では、じっさいに完全にモノにする参考書は、ひとつの科目につき、せいぜい1、2冊です。ということは、大量に「読まない」本を抱えることになる。この過程で、聖なる本という物体は、早々に脱神秘化されたわけです。

 こうした「読まない」本のなかに、たとえば英和辞典とか、世界史の資料集とか、そもそも「通読モデル」で作られていないレファレンス本があることは、みなさんも先刻ご承知かと思います。

 

 が、その過程でわたしが身につけたことは、こうしたレファレンス本で知識を参照するという行為よりは、もうすこし広いものでした。この「本から知識を引き出す」という感覚が参考書の書架全体へと拡張され、すべての本を「参照モデル」で眺めるようになったのです。

 ここで身につけた能力は、ジャンルごとに本をかためて配架することで、そのゾーンの背表紙を眺めると、どの本のどのあたりに重要なことが書いてあるかが見えるようになる、ということでした。

 いま伝えたいのは、「この情報についてはあの本のあそこに書いてある」という記憶だけではありません。これくらいは、勉強家なら多くのひとが持っていると思います。そうではなく、これは、背表紙を見ればその本の重要なページがイメージとして思い出せるという状態です。

 これが本と知識網の芽生えでした。これはまだ初期段階なのですが、まず重要なのは、これらが通読の結果として得られるあの「経験値」の感覚とはまったく異なる「読書」体験の産物であり、むしろ積読に近い読書の結果であったこと、そして、1冊という単位をこえて、棚全体が、ひとつの構造として動きはじめたということです。本と本との連関が脳内にインプットされ、欲しい時に欲しい情報にアクセスできる。これは逆に、1冊1冊を大事に読む態度では生まれにくい視点でした。

 そしてこの積読と知識網の技法は、研究者になって完成することになります。