抜かりなく完璧に準備したプレゼンは、果たしていいプレゼンなのか? それはしばしばプレゼンの本質である即興性を排除してしまってはいないだろうか。

「同じ授業でもネタは使いまわさず意識的に封印する」と語る文学研究者の阿部幸大さんが、プレゼンに即興性を取り戻し、プレゼンテーションという行為のポテンシャルを最大限に引き出す画期的な勉強法を提案する。

「勉強を手に入れたい」。そう願う人の背中を後押しし、着実に階段をのぼるための心構え・道具立てを可能にしてくれるエッセイ連載、第5回目です。

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※本連載は『勉強を手に入れる』と題して書籍化される予定です

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プレゼンは準備されているほどいいプレゼンなのか?

 プレゼンテーションという言葉は、日本語でも「プレゼン」と略されて、すっかり定着しています。会議室や教室、あるいはオンラインなどで、スライドを投影しながら説明を聞いてもらう――そのような光景が、すぐに思い浮かぶでしょう。あなたも、プレゼンの準備に追われた経験があるのではないかと思います。

 プレゼンは、ちゃんと準備されていればいるほどよい。そう当然のように見なされている。しかし、じつはこうした「プレゼン」のイメージは、もとの英語の “presentation” がもつ意味を、ごくごく狭くとらえた結果として出てくるものにすぎません。

 プレゼンテーションという単語は直訳すると「提示する」という日本語になりますが、これは情報でも製品でも思考でも、なにかを「他人に見えるように外部に出す」という行為一般を指す、とてもデカい言葉です。「表現する」なんかにも近い。

 今回は、この「プレゼンテーション」という言葉が上記のような「プレゼン」の意味に押し込められてしまった結果、本来のプレゼンテーションという行為が秘めているポテンシャルが殺されている、という話をしたいと思います。

 スライドを準備して、読み上げの原稿を執筆し、時間内でうまく発表を終わらせる――これは、わたしが考える「プレゼンテーション」の、勉強におけるもっとも重要な側面を排除しています。それは、即興性です。

即興(improvisation)といえばジャズ。今年5月に95歳で逝去したテナーサックス奏者のソニー・ロリンズの圧倒的なアドリブは「ジャズの即興とは何か」を示す教科書のようとも評された。 via Wikipedia

 もちろん、綿密に準備するのが悪いわけではありません。そういうプレゼンもあっていい。しかし、準備すればするほどプレゼンは「執筆」と見分けがつかなくなり、「プレゼンテーション」特有の効用は失われてゆきます。

 今回はプレゼンテーションに即興性を取り戻すために、あえて準備しない、あるいはプレゼンの手前の準備について考える、ということを、勉強の方法論として立ち上げることを目指します。