太平洋戦争末期、旧日本軍は片道の燃料だけを積み、生還を期さない航空特攻作戦を組織的に推進した。軍指導部はなぜ「統率の外道」とされた非人間的な作戦を強引に承認し、現場に責任を押しつけたのか?
戦時中の生々しい実態を取材したノンフィクション作家・保阪正康さんの著書『昭和陸軍の研究 下』(朝日文庫)より、一部を抜粋。出撃前夜に自由主義者としての信念を遺した学徒兵・上原良司の「所感」とその背景を紹介する。(全2回の1回目/2回目に続く)
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「統率の外道」死を覚悟して戦い自滅する特攻作戦
この作戦を最初に考えたのは、海軍内部の航空畑の幕僚たちであったが、それを具体的に推しすすめたのは、第一航空艦隊司令長官の大西瀧治郎であった。当初、大西はこの作戦を「統率の外道」と自嘲したが、すでに戦力が極限まで落ちこんでいる日本海軍としては、一時的にはこのような作戦をとるしかないとも判断した。
ところがその戦果があまりにも大きかったために、この作戦こそ有効であるとの了解がいきわたるようになった。
そして特攻パイロットの養成、特攻機の開発などに力を入れていくことになった。各種の資料によると、特攻作戦を考えたのは実際には海軍よりも陸軍のほうがはるかに早かったという。つまり昭和19年2月から3月にかけて、その考えが参謀本部作戦部のなかに生まれていた。作戦課長の服部卓四郎などがそうした考えをもっていた。しかし、この作戦には反対の声も多かった。たとえば航空総監の安田武雄などがその中心であった。
そのために、3月には安田が更迭され、参謀次長の後宮淳がこのポストを兼任することになった。時期的にいえば、首相、陸相の東條英機が参謀総長を兼任したあとに、特攻作戦は本格的に模索されたことになるのだ。
当初、特攻作戦は表面上は論じられなかったが、指揮者の間では特攻作戦が容易に行われるような土壌づくりはすすめられた。パイロットたちが死を覚悟して空母や航空基地で戦い、そして自滅していくことに感状が次つぎに発せられた例などがそうであった。
そういう空気のなかで、特攻作戦になじむ空気が意図的につくられた。これなど軍官僚の責任のがれの体質をよく示しているといえた。



