責任を下に下にと押しつける「タテマエにこだわる日本陸軍官僚一流姑息な手段」

 爆撃機はしだいに特攻機に変えられていった。九九双軽、四式重などが特攻機へ改造されていったのである。そして昭和19年9月25日に、航空特攻作戦の推進を、陸軍指導部は決めていた。

 指導部内には依然としてこの戦法に抵抗を示す者がいたが、参謀本部は航空本部に「ぜがひでも航空特攻を行うよう準備をすすめてもらいたい」と詰めより、強引にその作戦を承認させたのであった。

 こういう経緯は、海軍内部の特攻作戦採用までの経過とくらべると、はるかに狡猾であり、そして責任を下に下にと押しつける巧妙な方法でもあった。これは部隊編成についても指摘できることで、天皇の名において行う作戦とはしたくないために、第一線指揮官が独自に行う部隊編成というかたちをとることですすめられた。

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 森本忠夫著の『特攻』では、これこそ陸軍の指導部が、特攻作戦は「統率の外道」と認めていたことを逆説的に裏づけていると指摘している。「陸軍内部の自発的に出来上った私設の集団」というかたちこそ「タテマエにこだわる日本陸軍官僚一流の、実は、姑息な手段に過ぎなかったのである」という点も確認しておかなければならない。

比島沖海戦にぞくぞくと投入…学徒出陣組が意図的に徴用された海軍特攻機

 10月25日以後、海軍の特攻機はレイテ湾をはじめ比島沖海戦にぞくぞくと投入された。陸軍特攻機が初めて出撃したのは、11月7日のことで、第四航空軍(司令官・富永恭次)の「富嶽隊」の四式重一機がラモン湾方面に出撃し、散華(さんげ)している。

 陸軍特攻もまたこの日以後連日のように出撃をつづけ、比島沖、沖縄戦と青年パイロットが自らの命を爆弾に変え、散華していったのである。

 片道のガソリンだけを積み、生還を期さないこの攻撃に、パイロットたちはどのような思いをもっていたのだろう、と考えれば、次代の者はただ瞑目するのみである。加えて特攻パイロットには、学徒出陣組が意図的に徴用されたという事実を指摘しておかなければならない。