22歳の青年が特攻隊員として出撃する前夜にひそかにつづった「所感」
私の手元に、今、一枚の学徒兵の軍歴を記した経歴書がある。特攻隊員として逝ったパイロットのものである。
上原良司は、昭和18年11月に学徒出陣で慶應大学経済学部を休学し、陸軍の歩兵第五十連隊に入営した。上原の手記の一部は、『きけわだつみのこえ』に掲載されているが、彼の経歴が次のように紹介されている。
慶應大学経済学部学生。昭和18年12月入営。20年5月11日陸軍特別攻撃隊員として、沖縄嘉手納湾の米国機動部隊に突入戦死。22歳。
上原の手記は、別掲資料のとおりである。
上原の現世への別れの書はこれまで2通、社会には知られている。1つがこの「所感」ともう1つが家族に宛てた遺書である。遺書はすでに出征後の一時帰宅時に自宅(当時、長野県南安曇郡有明村)の机のなかに置かれていたが、ここに掲げた「所感」は特攻隊員として出撃する前夜にひそかにつづって報道班員に託していたものであった。
「明日ハ自由主義者が一人この世から去つていきます。」
この「所感」は、誰に宛てたものでもない。アメリカ軍の機動部隊に突っこんでいくという前夜に、自らの信条を書きのこし、次代の者にこのような一学徒がいたということを伝えようとしたのであろう。ここに書かれている内容を口にしたり、書き物としてのこしたとすれば、まちがいなく逮捕される。反戦分子として相応の罰を受けたであろう。
だが上原は、自らの「死」とひきかえに枢軸国家は敗れ去り、自由を尊ぶ国家が生きのこるであろう、と書いたのだ。
「自己の信念の正しかつた事、この事は或は祖国にとつて恐るべき事であるかも知れませんが、吾人にとつては嬉しい限りです」といい、「明日ハ自由主義者が一人この世から去つていきます。彼の後姿ハ淋しいですが、心中満足で一杯です」と断言したのである(原文から引用)。
現在、特攻作戦を指令した上級指揮官の言、たとえば第四航空軍司令官の富永恭次は、「私も君らにつづく。安心していってくれ」といった類の言が紹介されているが、上原の「所感」のほうがはるかに歴史的な普遍性をもっていることはいうまでもないように思う。
上原は自らに与えられた時代の呪縛を恨みとしながら、人類の普遍性のなかに生きることにしたのである。



