自らの肉体を爆弾に変え、戦況の挽回が不可能と知りつつ敵艦へ体当たりしていった特攻隊の学徒たち。彼らはどのような経緯で選ばれ、出撃を前にどんな本音を交わしていたのか?

 戦時中の生々しい実態を取材したノンフィクション作家・保阪正康さんの著書『昭和陸軍の研究 下』(朝日文庫)より、一部を抜粋。出撃を翌日に控えた特攻パイロット・上原良司が遺した「所感」の背景と、遺族の手帳に記されていた隊員たちのあまりにも切ない雑談の実態を紹介する。(全2回の2回目/1回目から続く

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パイロットになって「皇国」に報いるのが夢だった

 平成4年(1992年)7月のある1日、私は上原の故郷である長野県穂高町大字有明(現・安曇野市)を訪ねた。

 東京・新宿から中央本線に乗って、穂高駅で降りた。アルプスの連峰をみながら、タクシーを走らせ穂高町の郊外(大字有明)を訪ねた。当時は妹の清子(67歳)が夫とともに医院を開業し、上原の霊を慰めていたが、そこで上原が入営して1年ほど後に書いた履歴書をみせられた。

 それによれば、上原は慶應大学経済学部在学時に休学になり、松本にある歩兵第五十連隊に入営している。すでに大日本帝国はアメリカをはじめとする連合国に徹底的に打ちのめされ、絶望的な戦いに入っていた。大学生もまた「皇国存亡の危機」のとき、銃を肩に前線にでていくことになったのである。上原もまたその運命を従容と受け入れた。

 昭和19年2月1日に幹部候補生を命じられ、一等兵となった。2月9日に特別操縦見習士官(特操)に採用され、熊谷陸軍飛行学校(埼玉県)に入校した。曹長となった。資料をみればわかるのだが、第五十連隊には110人ほどの学徒兵が入営したが、このうち三十数人が特操の試験を受けた。

 合格したのは10人余であった。学徒兵にとって、この期にはパイロットになって「皇国」に報いるのが夢であった。上原はその夢を現実のものとするコースに入った。むろんこの期には、特攻作戦は実施されてなく、自分がいずれその要員になるだろうとは全く想像していなかったにちがいない。