日本軍がもっとも激しく体当たり攻撃を行った日の記録
嘉手納湾には空母バンカー・ヒルが停泊していたが、特攻機はこの空母をめざして突っこんでくるのであった。アメリカ側の資料では、バンカー・ヒルに2機が命中し、戦死者4102人、戦傷者264人がでたという。駆逐艦エヴァンスにも4機が命中し、戦死者31人、戦傷者29人がでている。
このほかに駆逐艦や輸送船にも何機か体当たり攻撃を試みている。アメリカ側の資料でも、この日の攻撃がこれまでの体当たり攻撃のなかでもっとも被害が大きかったと認めている。
日本側の資料では、64機のうち51機が目標物に突入し、のこりの13機は突入前に撃墜されたとある。上原の乗った「三式戦」がどのような攻撃をしたかは明らかになっていない。が、いずれにせよこういう数字のなかに上原の生命は組みこまれていったのである。
アメリカの空母に体当たりしていった学徒たちの悲痛な思い
梅雨が去ったのではないかと思えるほど、温度計が上昇した平成4年7月のある日、長野県穂高町大字有明にある上原家の一室で、私は上原清子とその子息に会っていた。上原良司ののこした遺品がケースにおさめられていて、私はそれを次つぎに手にしていた。21、2歳で逝った学徒の遺品を手にしているうちに、私はつい涙がでてくる。
昭和30年代半ば、私は大学生であったが、『きけわだつみのこえ』で上原の「所感」を読んだときに愕然としてしまった。自らの肉体を爆弾にかえ、戦況の挽回など不可能と知りつつ、アメリカの空母に体当たりしていった学徒たち、彼らはなぜこのような非人間的な作戦にしたがったのだろうと思っていた。だが上原の「所感」は、その疑問にたしかに答えていたのである。
自分とてこういう作戦を行う国家が戦争で勝つとは思えない、どんな理由があるにしろ自由を抑圧する政治組織など永続するわけはない、だが自分は「日本を偉大ならしめられん事を、国民の方々にお願ひするのみです」というつもりで死んでいく、と上原は書いていた。日本を偉大ならしめる、という意味は、むろん日本が自由を回復し、抑圧から解放されるというふうに、私は受けとめたのだ。



