共同通信社の政治部記者として、永田町を舞台に戦うモーレツサラリーマンだった小西一禎さん(54)。当時、月の残業時間は100時間を超え家事や育児は共働きの妻に頼りきりだった。
製薬会社で働く妻とともに、夫婦で互いに海外駐在を望んでいたところ、ある日妻の米国赴任が決定。45歳と働き盛りだったが、小西さんは熟考の末、2人の子どもと共に米国に同行して現地で「専業主夫」になる道を選んだ。
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45歳でエリート記者→専業主夫になるも「家にジャージ姿でいる自分に耐えられなかった」
――渡米前、家事力や英語力には自信があったのですか?
小西一禎さん(以下、小西) 渡米前の英語力は、TOEICでいうと735点。一定の理解力はあったものの、ネイティブのしゃべりがあまりに速く、渡米直後はなかなか聞き取れませんでした。家事は、やればできるけど見栄えや手際が悪い状態でした。
――いずれも課題があったのですね。米国で暮らしていた環境について教えてください。
小西 マンハッタンからバスで約30分に位置するニュージャージー州に住んでいました。大邸宅が立ち並ぶ住宅街で、私たちが住んでいた家は、3階建ての一軒家でお風呂が2つ、トイレが4つ、部屋が6つぐらいあって。バーベキューができるような庭もありました。日本人が多い街で、車で5分ぐらいのところに日系のスーパーがあり、日系の幼稚園もありました。
――理想的な環境ですよね。
小西 私にとっては初めての海外暮らしでしたし、子どもにとっても余計なストレスがかからないように配慮された環境でした。
――専業主夫としての、1日のスケジュールはどんな感じでしたか?
小西 2通りありました。1つは、家事に全振りして過ごす日。もう1つは、マンハッタンの英会話学校でレッスンを受け、時々知人とランチをして、その他の時間で家事をこなす日です。
――家事育児は、奥様とどう分担されていたのですか?
小西 現地では、子どもたちのお弁当作りだけは妻が担当していました。それ以外は、基本的に私が担当です。まさに、私と妻の役割がひっくり返ったわけですね。
――意外とすんなり現地の生活になじめたのでしょうか?
小西 いやいや、全くそんなことはなくて。特に最初の1週間はしんどかったです。バスや電車は時間通りに来ないし、工事業者の人も遅れるし、12月だったので雪も降って寒かったですし。現地のスーパーでも、店員が早口で何を言っているかわかりませんでした。
何より、稼ぎ頭となった妻と子どもを送り出して、ジャージで家にいる自分に耐えられませんでした。スーツという“戦闘服”を着て永田町で戦っていた自分が、家族の洗濯をして、ご飯を作っているなんて。
でも、自分で決断したわけで、それを妻にグチるのもカッコ悪いじゃないですか。現地の友人は職場で活躍していたので、彼らにも本音が言えず……。そうしたイライラを消化できず、渡米1週間で「俺は帰るぞ!」と妻にぶつけてしまったんです。


