シャーロッド氏の『タラワ』に、日本軍の捕虜の写真がのっているが、あれは私達ではなく、軍属の朝鮮人達である。軍人としては我々7人の他に生きている者はなかった筈だからである。
私が捕まってから、米軍は全島くまなく探したとみえて、あとの6人も次々に捕えられて来た。しかし再び7人の顔が揃ったときはすでに自由の身ではなかった。
生き残った7人、やせ衰えた日本兵
タラワ島玉砕のおかげに、ひそかに生きていた7人のやせおとろえたつわもの達は、やがて駆逐艦に連行されて、取調べよりも先に、手厚い救護をうけ、久しぶりに人間なみの食事を与えられた。しかし朝がくれば、今日こそ最後の日かと思い、日がくれるとああ一日生きのびたと、ほっとした様な、がっかりした様な複雑な気持になるのだった。
少くとも3週間程前の私は、決して死を恐れてはいなかったのに、こうして生きのびてみると、やはり命が惜しくなったのかも知れなかった。それでも捕虜になればおそかれ早かれ必ず殺されるものと、覚悟していた。
しかし、我々の受けた待遇は誠に鄭重で、衰弱した体には注射をうけ、三度の食事も栄養たっぷりな御馳走であった。戦闘中にもこれだけの食事を充分にとれる米軍と、乾パンと鰹節にたよる我軍とは食糧においてもこれだけの差があったのである。第三者の冷静な目には、すでにこの事は早くからわかっていたに違いない。自力を必要以上に過信した全く無謀といってもいい行動を我軍はとっていたのである。私は今更に恐ろしかった。こうして生きているのがどうしてもうその様だった。
いろいろの事を考えると、すべてが絶望的であった。何も知らずに戦争に深入りしてゆく故国に対して、何一つ打つ手さえないのが情けなかった。心の底で故国の必勝を念じ乍らも、その祈りの何と力なかった事か。その心に反対して、私のからだは日と共に恢復していったけれど、心の傷はいやすべくもなかったのである。
「幽霊じゃないか…」自分の墓と対面した
その後私は6人の仲間と分れて船でハワイの収容所に送られ、ついでニューヨークのエンゼル島(※原文ママ)、そして更にウィスコンシン州のキャンプを経て、テキサスの収容所に送られたのである。




