今にして思えば二度と出来ない官費旅行であった。それが自由の旅なら、目にうつるものすべて珍しい外国の旅は、どんなに楽しく快適であったろう。

 しかし見知らぬ土地をあちこち転送されてゆく捕虜の身には、益々遠ざかる故国に心ひかれて、車窓の景色を楽しむどころではなかった。しかし、何昼夜かの旅の間に、ここかしこで接する一般米人達は、我々の劣等感を無視して、親しみをよせる者が多く、それらの人々の慰めの言葉は通じなくても心にしみるものがあった。

 私はここで終戦を知った。たとえ敗戦であっても、故国の土がまだ残っているという事は何よりの慰めであった。もうしばらく戦いが続いたら、私は祖国のない人間になる所だったのである。終戦と共に、捕虜全員は死を覚悟した。

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 私もタラワで死ぬ命が2年のびただけと、今更死を恐れる気持はなかった。しかし、思いがけず故国送還という事になったのである。

 送還船はノーマクエン号という面白い名前の船であった。年の暮に出港したが、途中海が荒れて日数がかかり、生きて再びふむ事のないと思っていた故国浦賀に上陸したのは、あくる年の1月3日であった。

 私はその日の汽車ですぐ、すでに遺骨が無言の凱旋をしている郷里に帰ったのであるが、母は私の戦死の報に死期を早めて亡くなり、兄姉はなかなか生きて還った事を信ぜず、幽霊ではないかと足の事ばかり気にしていた。私はその足ですぐ裏山の墓地にゆき、墓標をぬいたのであるが、白木の角材に記された自分の名前に、何とも言いようのない感慨をうけた。

<前編より続く>

※カラー化した写真の色彩は史料を参考にした推定を含みます(原写真の人物・構図は変更していません)。

※記事中には、今日からすると差別的表現ないしは差別的表現と受け取られかねない箇所がありますが、その時代の表現としてある程度許容せざるを得ないものがあります。読者の皆様が注意深い態度でお読みくださるようお願いする次第です。

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