後藤真希の加入で変化が起きた
このあと、“金髪の中学生”後藤真希を3期メンバーに迎えてリリースされた7thシングル「LOVEマシーン」(1999年)でモーニング娘。は初のミリオンセラーを達成、ブレイクを果たす。
安倍は今度は後藤と対決の構図を描かれながらも、実際にはそれまでひとりで背負っていたプレッシャーが軽くなったところがあったようだ。つんく♂も、後藤が入ってきてからの安倍は《少し気が抜けたからか太ったりしましたもんね》と見抜いていた(前掲、『モーニング娘。20周年記念オフィシャルブック』)。
その後もメンバーの卒業と加入を繰り返しながら、モーニング娘。は国民的アイドルグループとして人気を不動のものとする。
一番の友達でありライバル…疎遠になった時期も
安倍と飯田は同い年にして同じ北海道出身で、上京後はしばらく同居したこともあり、一番の友達でありながらライバルでもあるという関係を築いていた。しかし、グループが大所帯になるにしたがい、疎遠になった時期があったらしい。飯田は、それはちょっとした視点の違いから生じたとして、次のように説明する。
《私は初期メンバーとして後輩のことも考えながら、グループ内の空気を大事にしたい。その一方で、なっちはセンターとしてモーニング娘。を引っ張らなきゃいけないという責任感があって。だから支える側の苦労と、センターを背負う人の重圧が、お互いに分からなかったんです。
例えば、“今はみんなでミーティングしたいから、メイクは後でもいいじゃん”と私は思うけど、なっちは“センターでいっぱい映るから、まずメイクをしっかりしないといけない。ミーティングする時間は後で”と言う。どっちも間違いじゃないんだけど、そういう立場の違いが、当時はお互いに譲れなかったんです》(前掲、『モーニング娘。20周年記念オフィシャルブック』)
飯田はメジャーデビュー時に苦い経験をして以来、もし自分がセンターやソロになれば、まわりの目を気にして苦しくなるばかりだと思い、そうなりたいという気持ちを封印していた。ただ、その分、グループ内ユニット「タンポポ」などで違う自分をたくさん出せたとも語っている。
飯田はリーダーを引き継ぐ
飯田は、2001年にグループの初代リーダーだった中澤裕子が卒業したのにともない、その座を引き継いだが、それも自分は支える側の人間だという意識が誰よりも強かったからこそだろう。
飯田から見ると、安倍はセンターというポジションをプラスに変え、ますます自分を輝かせられるタイプだった。実際そうだったのだろうが、しかし、他方で安倍自身は、モーニング娘。に在籍中、ソロでやりたいという当初からの思いと、アイドルとして求められるものとのギャップのなかでずっと葛藤を続けていた。

