太平洋戦争末期の1944年、日本軍はイギリス領インド軍(英印軍)を相手に史上最悪とも言われる惨敗を喫した。2万人以上が激しい戦闘に加え、食糧難や感染症に苦しみながら命を落とした「インパールの戦い」である。

 この戦いと同じ過ちは、「終わりなき戦争」の様相を呈する現代のイラン戦争でも繰り返されている。

 このたび『完全版 インパールの戦い』(文春新書)を上梓した日印関係史のエキスパートである笠井亮平氏と、2018年から20年まで駐イラン特命全権大使を務め『なぜ米国はイランに負けたのか』(同)を上梓した元外交官の齊藤貢氏が、時代も規模も地域も異なる二つの戦いの“失敗”の共通点について語り合った。

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一度は断念したプラン

 齊藤 インパール作戦の構想自体は、完全に的外れとは言えないんですよね。時期によっては、結果も分からなかった。

 笠井 そうなんです。インド北東部へ進攻するインパール作戦の前身となるプランは、じつは1942年に「第二一号作戦」として検討されています。たとえば連合国が蒋介石の重慶国民政権に物資を補給する「援蒋ルート」を完全に遮断しようとする方針など、中身もまっとうです。なおかつ、この時の英印軍は同年5月のビルマ失陥から立ち直っておらず、仮に作戦が実行に移された場合、防衛は難しかった可能性が高いと、英国側が戦後、評価しているのです。

インパール作戦を指揮した牟田口廉也中将

 ただし、この時の日本軍は、兵の疲弊もありましたし、食糧や装備を運ぶのが困難であるという兵站の観点から作戦を断念しました。

 齊藤 2年前の段階では、冷静な判断が下されているのが意外です。

齊藤氏

 笠井 にもかかわらず、2年後のインパールの戦いでは、戦局の悪化に牟田口廉也の意向も重なり、兵站に重大な懸念を抱えたまま戦闘に臨んでしまうことになりました。

 その行軍の悲惨さは、一言ではとても言い尽くせません。日本軍が携行した食糧はわずか20日分で、牟田口からは不足分は現地で調達すべしという指令が下っていた。装備や武器に関しても、いくつもの山を越えるため分解して担いで運び、都度組み立てることが前提とされているなど、十分に状況を見通していたとは到底言い難い。当然、短期決着は果たせず、日本兵たちは飢餓と豪雨に晒されながらの撤退戦を余儀なくされ、マラリアや赤痢に倒れていきました。退却路には白骨化した遺体が連なり、「白骨街道」という名称が、この無謀な作戦の象徴として今も語り継がれています。

笠井亮平の新刊『完全版 インパールの戦い』(文春新書)

 齊藤 ただ、この撤退戦は、インパールの戦いの一面でしかありません。笠井さんの『完全版 インパールの戦い』の新しさは、英国側の視点から、この戦いを読み解いている点にあります。日本軍の心許ない兵站に対して、英印軍の補給網はどうだったのですか。