太平洋戦争で最も無謀とも言われる「インパール作戦」。敗走する日本軍を苦しめたのは、イギリス軍が築いた情報網と密林でのゲリラ戦だった。彼らは地元の部族を組織化して「Vフォース」を創設したほか、現地に詳しい学者や行政官を総動員。なかには“女神”と称えられた20代の女性人類学者自らが隊長となり、部族を率いた例もあった。ここでは、英印軍の知られざる現地工作の裏側を、笠井亮平氏の著書『完全版 インパールの戦い』(文春新書)より抜粋して紹介する。

コヒマの風景 筆者撮影

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地元の部族を組織化した「Vフォース」

 さらに、英印軍は日本軍の動きを探るための情報ネットワークを築こうと、国境地域に住む部族の組織化にも乗り出した。

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 この案を提唱したのはインド軍総司令官のウェーヴェルだった。彼は日本軍のインド北東部進攻に備え、山間の国境地域でゲリラ戦を展開できる部隊を創設することにした。トリプラ藩王国やベンガルのチッタゴン、チン丘陵やナガ丘陵などから部族民2000人を採用し、約200人に対して1人の割合でイギリス人士官を配置するというのが当初の計画だった。さらに採用の余地があれば、1万人規模に拡大することも視野に入れていた(Kirby, The War against Japan, Vol. II, p.192)。ビルマ戦で手痛い敗北を喫し、その後も反攻を焦った結果、第一次アラカン作戦で勝利を逃すなどマイナス面が目立つウェーヴェルだが、将来への重要な布石を打っていた点は評価されるべきだろう。

 この結果誕生したのが、「Vフォース」と呼ばれる部隊だった。1942年4月にはすでに部隊の構築や兵員の訓練が始まっていたという。アッサム・ライフルズというアッサム州傘下の準軍部隊から、山岳戦に強いことで知られる精強なグルカ兵が派遣されて中核をなし、そこに各部族からの要員が加わるという形がとられた。Vフォースはトリプラ、アイザウル(現在のインド・ミゾラム州の州都)、チン丘陵、インパール、コヒマ、レド、アラカンの七地域に分かれ、各地で日本軍に関する情報収集や偵察活動を展開することになった。また、英印軍と地元住民との橋渡し役、そして勝手知ったる密林のなかでの荷物運搬や案内役を担った(Kirby, The War against Japan, Vol. II, p.192)。英印軍にとってVフォースは、彼らの目となり耳となったのである。

 英印軍が組織化したのはVフォースだけではなかった。ビルマ側の辺境地域で部族民主体の既存部隊があったほか、新設したケースもあった。きっかけは日本軍の進攻直前、ビルマ辺境地域の統治に当たっていたH・N・C・スティーヴンソンがドーマン=スミス総督に対し「イギリスが撤退する事態になっても、現地語を解するインテリジェンス・オフィサーのネットワークを残しておくべきだ」と進言したことだった(Adam Kuper, “An Interview with Edmund Leach”)。