カチンでは「北カチン部隊」が創設されたことは先に記したが、ここでも重要な役割を担った学者がいた。人類学が専門のエドマンド・リーチである。人類学を学ぶ者なら知らない者はいないほどの泰斗だ。『高地ビルマの政治体系』をはじめ、『レヴィ=ストロース』や『社会人類学案内』など戦後に多くの著作を残している。
リーチはカチンの村に長期滞在してフィールドワークに取り組みながら、1940年秋からはビルマ陸軍士官も兼務していた(エドマンド・R・リーチ『高地ビルマの政治体系』p.358)。日本軍のビルマ進攻が始まると、帯同していた妻と幼い娘をインドに避難させ、彼自身はいったん昆明に逃れた。しかし過酷な移動のなかで赤痢にかかってしまい、カルカッタで療養生活を余儀なくされる。42年8月にカチンに戻ろうとした際、立ち寄ったアッサム州内の飛行場で前出のH・N・C・スティーヴンソンと偶然対面することになり、「きみには明日フォート・ハーツに行ってもらうことにしよう」と告げられた。すでに現地入りしていたギャンブル中佐とともに、北カチン部隊創設に取り組むことになったのだ(しかし、両者の折り合いは悪く、犬猿の仲だったらしい)(Kuper, “An Interview with Edmund Leach”)。
一連の組織活動で彼はカチン各地を訪ねてまわり、「直接足を踏み入れたことのない主要地区といえば、フコーン〔フーコン〕河谷とヒスイ鉱地域を残すのみとなった」という(リーチ『高地ビルマの政治体系』p.359)。軍の意図を理解し、かつ現地語で住民と接触できるリーチは得がたい存在だったにちがいない。
部族長や長老、村民と密接な関係を築いていた人物
実務家が部族部隊を率いたケースもあった。チン丘陵で「チン部隊」が創設された際、これを主導し、自ら部隊長となったのがノーマン・ケリーというイギリス人行政官だった。ケリーはビルマ政府の官僚として東部ワ州や国境画定委員会での勤務を経て、1939年からティディムに駐在していた(Desmond Kelly, “Kelly’s Burma Campaign”)。ケリーは北チン丘陵地区の副行政監督官として、管轄区域内の部族長や長老、村民と密接な関係を築いていた。チン族は英印軍から協力を求められた際、自分たちの思惑があったことは前述したとおりだ。だとしても、ケリーのような存在があったことで──実際、彼は部族長らに直談判して協力を求めていた──合意に達したのである。


