チン丘陵には「チンフォース(Chin Force)」や「チン丘陵大隊(Chin Hills Battalion)」があり、チン族(ゾ族)が動員されていた。さらに「チン部隊(Chin Levies)」も加わった。隣接するルシャイ丘陵でも「ルシャイ部隊(Lushai Levies)」が作られた。こうした部隊は「クラスA」と「クラスB」に分けられ、前者は居住地域を越えた攻撃的な作戦に従事し、後者は居住地域内での活動に従事することになった。とくに期待されたのはチン丘陵につながる二つの小道を守ることで、そのうちのひとつには英印軍の物資倉庫が置かれている重要拠点だった。
このように、英印軍はチンとルシャイで部族との連携を深めていったが、現地住民側にも協力するに当たっての思惑があった。各部族の長は、土地所有を今後も政府が認めることや自動車道の整備、提供された武器を戦後も継続保有すること等を求めていたのだった。こうした要求のすべてが受け入れられたわけではなかったようだが、死傷者に対する補償を盛り込むなど地元政府とのあいだで妥協が図られたという(Pum Khan Pau, “Behind the enemy line”)。
「対応可能な規模をはるかに超える応募があった」
ビルマ北部のカチン地域では、「北カチン部隊(Northern Kachin Levies)」が作られた。カチンは東側を中国の雲南省、西側をインド北東部と接している。インドのレドと昆明を結ぶ援蒋ルートは、まさにこのカチンを横断していた。スティルウェル率いる中国遠征軍が雲南方面からビルマに進撃する際にもこの地を通ることになる。連合軍にとっては一時的に撤退するにしても、何らかの形で足がかりを残しておきたい地域だったのだ。
日本軍は1942年5月の時点でカチン州の中心都市ミートキーナ(ミッチーナー)周辺は占領していたものの、さらに北方の地域まではカバーしていなかった。こうしたなか、8月にギャンブルという名の中佐が雲南との国境に近い英軍拠点フォート・ハーツに入った。彼の任務は部族部隊を構築することだった。ギャンブルは空輸による食糧補給を受けながら北カチン部隊の構築活動を進め、11月までに500人のカチン族ゲリラを集めることに成功した。
これでも食糧や装備上の制約から人数を抑えたほうで、「対応可能な規模をはるかに超える応募があった」という(Ian Fellowes-Gordon, Amiable Assassins, p.15)。


