インパールの戦いから9年後、ナガ族の村々を尋ねた日本人
バウワーの活躍を調べるなかで筆者が思い浮かべたのは、社会人類学者の中根千枝だった。『タテ社会の人間関係』があまりに有名な中根だが、1950年代にはインドでフィールドワークをしており、北東部にも滞在して調査を行っていた。インパールの戦いから9年後の53年にはナガ族の村々を訪ね、古老や若者から当時の体験を聞き取っている。そのときに訪問先で夕食を振る舞われたときの様子を、彼女はこう記している。
「心をこめた晩餐が、私の前に並べられると、この家の息子の嫁が、日本兵はお箸で食べていたから、あなたもお箸が要るんでしょう、日本軍のを記念にとっておきましたからと、娘に台所で箸を探させた。探し出てきたのを見ると、男子用の箸箱である。この人はここで最期を遂げたのだろうか、こんな日本の箸箱を、思いもよらぬこのジャングルの奥深く発見するとはと、無量の感慨をこめてあけると、箸は一本しか入っていない。一本では食べられないんです、と云うと、息子はさっそく竹を切ってきてあとの一本を作ってくれた。この地方は激戦のあった地だから日本人が行ったら殺されると聞いていたが、こうした優しい人々の親切に胸が熱くなるのだった。お隣の家では、日本の飯盒を今も重宝して使っているという」(中根千枝『未開の顔・文明の顔』pp.64-65)
現地での滞在期間こそ異なるものの、中根もバウワーもナガ丘陵を訪れたのはいずれも20代後半で、ナガ族の人びとと信頼関係を築いていったことは共通性を感じさせる。仮に中根が戦前にナガ族の研究をする立場だったとしたら、日本軍から協力を求められていたかもしれない。時期も状況も違うし、個人の思いもあろうが、彼女がどう対応していただろうかと想像せずにはいられない。
なお、当時ナガ丘陵では、クリストフ・フォン・フューラー=ハイメンドルフという人類学者も活動していた。彼の著書『裸のナガ族(The Naked Nagas)』は、バウワーの『ナガの道』と並び、現在でもナガ族研究の必読書のひとつになっている。ただ、彼の場合、オーストリア人ということがネックになった。オーストリアは1938年にナチス・ドイツに併合されていたため、学者とはいえ枢軸国側の人間と見なされたのである。彼は一時期南インドのハイデラバードで軟禁生活を余儀なくされたが、その後、イギリス植民地政府のもとで行政官の職を得て、北東辺境管区(略称はNEFA。現在のアルナーチャル・プラデーシュ州)で勤務した。


