誹謗中傷に娘を殺された「母親の言葉」
「表現の自由はもちろん大事ですけれども、表現の自由の前に、誹謗中傷される人は平和に生活する権利を奪われているんですよ。ただやめてほしい。なぜなら、もうそれ以上されたら生きられないから。だから、生きるために必死になってやっているんですよ」
松永も同じ検討会でこう述べた。
「私は今もSNSの投稿ボタンを押す前に、いつも、また誹謗中傷されるのではないかという恐怖心に襲われています。投稿をやめることもあります。言論の自由が萎縮させられているのは、むしろ被害を受ける人たちです。また、侮辱罪の厳罰化から三年が経過した現在でも、SNS上では活発な意見交換が行われておりまして、誹謗中傷の被害というのも依然として発生しています。この現状を見る限り、厳罰化によって言論の自由が損なわれたとは到底言えないと思います」
根底にある思いを行動に
松永は誹謗中傷と闘いながら、飯塚の影も追っていた。松永は法務省の被害者等通知制度を利用して飯塚の居場所を知った。
飯塚は東京拘置所に収容された一か月後、栃木県市喜連川にある喜連川社会復帰促進センターに移送された。どんな刑務所で服役しているのかこの目で確認したいと思った松永は、二〇二二年一〇月、私と同センターを訪れた。
奥州街道の宿場町として賑わった喜連川は、過疎が進み鄙びていた。松永と私が目指したのは町の東にある丘だった。落ち葉を踏みながら、車道わきの歩道を進んだ。すると、左側の奥まったところに観音開きのフェンス状の門扉があった。PFI(民間資金導入)方式で設立されたこのセンターは、人材の再生を理念に掲げ、「開かれた刑務所」を打ち出している。
実際に、門扉も開け放たれていた。私と松永は敷地内に入り、刑務所本体の正門に辿り着いた。
面会を申し込むかどうか確認すると、「いやいや、民事裁判で係争中だから、ここに来たことも秘密にしないといけない。お互いに会える状態でもないし、心の準備もできてないから」。
松永側は刑事裁判の初公判の日に、飯塚側に対し約一億七〇〇〇万円の損害賠償を求める民事訴訟を起こしていた。刑事裁判が長引くことを見越した上での策だった。