「鬼熊事件」の影響?

 これと同じ記事は19日発行20日付山陰夕刊にも載っており、両紙の間で提携があったのか、あるいは通信社の配信か。さらに因伯は、「加害者國太郎は平常憂鬱な性質で熱しやすく、地域では一流の紳士でありながら、にわかに心情の急変から鬼熊のような犯行をあえてするに至ったのではないかとうわさされている(八橋電話)」と書いた。

 この記事もやはり山陰に掲載されているが、興味深いのは「鬼熊」が登場すること。10月20日付大朝朝刊山陰版も「九人殺傷-八橋の惨劇」の連載記事の第1回に「『鬼熊』から思ひ(い)付き」の中見出しを立ててこう書いた。

「(國太郎は)『自分の狙っている8人に対して、もし一度に復讐ができなかった時には、その場を逃げ出してどこかに逃れ、最後の目的を果たすまでは付け狙う考えだった』と自供している。これは千葉県で起こった例の鬼熊のやった方法から思いついたものである」。

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「『鬼熊』から思いつき」大阪朝日の連載記事

鬼熊、治安維持法…当時の時代背景は

「鬼熊」とは――。2カ月前の1926年8月20日、千葉県香取郡久賀村(現多古町)で、荷馬車引きの岩淵熊次郎が親しかった女性ら2人を殺害して逃走。追跡した警察官も殺害し、毒物を飲んで死亡するまでの42日間、大量の警察官を動員した警察の捜査を振り回した。連日大々的に報道され、「鬼熊」の名前は全国に知れ渡った。國太郎もそれを知り「鬼熊」にならったという見方だ。

「鬼熊事件」を報じた当時の新聞

 当時の日本は3年前の関東大震災からの復興を目指す中、昭和恐慌を先取りした不況が進行。農村では小作争議、都市では労働争議が頻発していた。前年の1925(大正14)年には、25歳以上の男子に選挙権を与える普通選挙法と抱き合わせで治安維持法が公布され、軍国主義の足音が響き始めていた。

 大正最後の年となったこの1926年は大阪・松島遊郭をめぐる贈収賄事件と、大逆罪に問われた朴烈と金子文子夫妻の怪写真事件が世間を騒がせ、政局は政友会と憲政会の2大政党が権謀術数をめぐらす泥仕合。国民の間には現在にも似た閉塞感が広がっていた。そんな中、「権力の大捜査陣を1人で翻弄した鬼熊」は当時の人々に一種の爽快感を与え、さまざまな形で影響を及ぼした。(つづく)

次の記事に続く 「なぜお父さんは死んでくれなかったの」妻と娘は涙ながらに…八橋9人殺傷事件・エリート郵便局長が陥った“2500万円の借金”と一族の確執