複雑だった親族関係

 犯行の動機の1つとされた親族との対立について各紙はそれぞれ報じたが、『鳥取県警察史第1巻』は次のようにまとめている。(文中の仮名を実名に変換。以後も同様)

 國太郎は郵便局長のかたわら米相場に手を出して、一時は大もうけしたこともあった。しかし、大正に入って米相場に大きな変動があり、そのために大損をして、多額の借金を抱え込んでしまった。落ち目になると、周りの人たちが自分を嘲笑しているように感じられ、普段は何事もなく交際していた人たちとも次第に疎遠になり、ささいなことに腹を立て、いがみ合うことが多くなり、今回の事件もそうしたことが遠因になっていたと思われる。

 親族関係はかなり複雑で、内容は資料や新聞によって微妙に違う。『捜査實例集』の記述を引く。

〈1.國太郎は本家筋に当たる中井家から妻やえをめとっており、やえの死亡した妹の男児2人を養育していた。やえと中井光蔵の妻のぶは姉妹で、その2人はのぶにとっても甥に当たることから、養育費は光蔵が負担していた。1925年10月ごろ、國太郎はその養育費を受け取ると、出入りの米屋の店員に米代を支払った。ところが、店員がその金を横領したので、店主が國太郎に請求した。これを聞いた光蔵は「自分の方からは養育費を間違いなく渡しているのに、米代も払わないとは太いやつだ」と近所に吹聴したといううわさがあった。國太郎はそれを伝え聞いて光蔵に対して非常に憤慨していた。

 2.同年春ごろ、郵便局に為替の金を受け取りに来た客があったが、渡す現金が足りなかったので、國太郎は局員に光蔵に金を借りに行かせた。光蔵にも現金がなかったので、町内の知人から借りて國太郎に渡した。その後、光蔵や中井熊太郎らが「局長が為替の金を支払えなかったのは、公金を横領して遣ってしまったからだ」と近所中に吹聴したと言って、國太郎は光蔵、熊太郎を恨んでいた。

 3.中井熊太郎は酒造業を営んで相当に財産も築き、信用もあるが、元は八橋村(当時)の書記。國太郎は自分が資本を貸して酒造業を始めさせ、今日の地位を得たのに、その恩義を忘れてことごとに自分に反対するのは不都合だと言って熊太郎を憎んでいた。

 4.また、國太郎は1926年5~6月ごろ、郵便局長辞任に当たって、当時名古屋の保険会社に勤めていた長男を後任の局長に推薦していた。ところが、熊太郎をはじめ、町の有力者らはそれに反対。有力者の1人の長男を推した。國太郎の長男が辞退したため、その通りになったことから熊太郎らを恨んでいた。〉

中井國太郎(『捜査實例集』より)

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 1922年出版の『山陰實業興信録』には、中井熊太郎が「中井酒造場店主」のほか「麺類商」「八橋自動車株式会社重役」として掲載されている。國太郎の後任の郵便局長になった人物の父親も「酒造業」と「八橋自動車株式会社重役」として載っている。また、『東伯町誌』によれば、中井熊太郎は1902(明治35)年、短期間だが町長に就任しており、事業に成功した町の有力者だったことが分かる。