〈5.中井為次郎は以前は國太郎と親密に交際しており、親戚の男を郵便局事務員として勤務させていたが、1926年春ごろ、俸給のことから國太郎は男を解雇した。為次郎は近所の者に「親戚が辞めたのは、局長に不正があるからだ」と吹聴したと言って、國太郎は為次郎に憤慨していた。
6.錦織正之丞は近くに住んでいるのに、近来何事にも國太郎に反対すると言って、互いに反目していた。〉
『捜査實例集』の記述もあくまで國太郎の供述に基づいており、全てが事実といえるかどうか分からない。初公判で國太郎は「錦織とは政党的に反対の立場に至り、私が町会議員に立候補した時も常に反対派の運動をしていたので、あまりピッタリしなかった」と述べている(1927年6月30日付松陽)。
大門正克「名望家秩序の変貌 転形期における農村社会」=『シリーズ日本近現代史 構造と変動3(現代社会への転形)』(1993年)所収=によれば、普通選挙法に先立つ1921(大正10)年の町村制改正と翌年の新農会法制定で、帝国議会(当時)や県会より前に、普通選挙に近い方式が町村レベルに導入され、1921年と事件の前年1925年に全国で町村会議員選挙が行われた。
「なぜお父さんは死んでくれなかったの」
一方、中央政界の「政友対憲政」の対立は地方にも波及。鳥取県議会は事件の年の1926年、大荒れに荒れて乱闘まで起きていた。八橋町でも政治的な対立が深刻化していたと考えられる。その結果、國太郎は町議選に落選。そのことも國太郎の鬱屈と憤懣に輪をかけたのだろう。
10月20日付の因伯は、記者が國太郎の家を訪問。妻や娘らが涙ながらにこもごも語った言葉を記している。
何ともご迷惑をかけたご親戚の方や社会に対して申し訳がありません。私たちは生きている心地がありません。なぜお父さんは死んでくれなかったのでしょう。こんな大それたことをするようならば、これまでに自分で死んでくれなかったのか……。
世間ではいろいろ言われているでしょうが、「西中井」(中井光蔵方)とは始終厚い交際もし、最近までも、のぶが度々家に来て食事を共にしたり、こちらからも行ったりしていた。いろいろ親切にしてもらうぐらいだから、何の恨みや鬱憤がありましょう。
局長を他に譲ったからと言われるかもしれませんが、つい2~3日前まで、國太郎は「引き継ぎが済めば、これから俺も楽隠居できるから」と喜んでいたくらい。こんなことがあろうとは思われず、いまさら申し開きをするのではありませんが、どうした気の狂いからこんなご迷惑をかけたのか。始終そばにいた私たちにも実際理解することができないのです。
家族としてもこれが正直な心境だったのかもしれない。本家筋の光蔵家は「西中井」と呼ばれ、「地方に聞こえた名門」(『東伯町誌』)。分家筋の國太郎の家は「東中井」と呼ばれていた。10月22日付鳥取は八橋出張から鳥取に戻った予審担当の児島検事の話を「八橋町大慘劇の遠因 東西両中井派多年の暗闘」の見出しでこう書いた。



