3日前の目撃証言
岩本がそのときのことを振り返る。
「眼鏡とか血だまりとか目に見えているんですが、それが何を意味するのか、何にも結び付かなかったですね。何かトラブルに巻き込まれたとか、そういうこともまったく考えつかなかった。“いったい、これは何なんだ”という考えがグルグル回っていただけです」
岩本は「Sさぁーん! Sさぁーん!」と大声を出しながら、辺りを20分ほど探し続けたが、反応はない。
防犯カメラを確認すると、9時17分に露天風呂へと向かうSさんの姿が映っていた。
11時15分、警察に通報。
「(110番の担当者は)不審者が入ってきて、トラブルになったんじゃないか、ということを最初は言ってました」
通報から20分ほどで到着した警察官は、現場検証の結果、岩本にこう告げた。
「人間の仕業じゃないですね。おそらくクマにやられた可能性が高いです」
予想外の言葉に岩本は言葉を失った。
ここで初めて、頭を過(よぎ)ったことがある。
「実は3日前に露天風呂に入っていた女性客が『川の向こうにクマがいた』というので警察に通報していたんです。けれどまさか、というのが正直なところでした」
山深い場所である。過去には周辺でクマが目撃されたこともあったが、一方でシカやイノシシなど他の動物と見間違えるケースも多々あった。
だが、後で振り返ると、この女性客の目撃証言は重要な意味を持っていた。
実はこの目撃証言に先立つ10月8日には、温泉から2キロほど上流にある山林で、クマに襲われたと見られるキノコ採りの70代男性の遺体が見つかっていたからだ。
「もちろん、そのことは知っていました。けれど、今思うと、やっぱりまだどこか他人事として受け止めていたんだと思います」
そう言って、岩本は唇をかみ締めた。