亡くなった男性従業員は、常々「娘を高校まで出してやりたい」と、ささやかな夢を語っていたという。『羆を撃つ』(文藝春秋)より、岩手県北上市の温泉施設で起きた事故を検証した「名物レフェリーはクマに連れ去られた」を紹介する。(全2回の2回目)
◆ ◆ ◆
沈黙する職員たち
クマはわざわざ柵を越えて露天風呂に侵入し、そこにいた人間を襲って殺害。さらにその身体を50メートル以上も引きずった先で、2日にわたって食害していた。
それはベテランハンターの鶴山をして「あんなクマは見たことない」と言わしめるほどの異常な行動であったわけだが、その異常性は何に起因するのだろうか。
最大のポイントは、このクマは8日にキノコ採りの男性を殺害し、食害したクマと同一個体なのかという点にある。
鶴山は「まず十中八、九、同じ個体だと思います。一度人間の味を覚えてしまったクマは立て続けに人を襲う傾向がある。13日に温泉の入浴客に目撃されたクマも同一個体だとしたら、次の襲撃の機会を狙っていたのかもしれません」と語る。
だが、本件事故に対応した「北上市危機対策本部」は2025年10月27日付の発表で、8日の事故現場で採取されたクマの体毛のサンプル数が少なかったため、16日の瀬美温泉で採取されたクマの体毛のサンプルと比較することができなかったとしている。
つまり、同一個体だったとも、そうでなかったとも断定していない。
事故後、何度も北上市役所に出向いたという岩本はこう語る。
「僕が『8日の事故を起こしたクマがこっちに来た』というニュアンスのことを言うと、それまで普通に会話していた職員がみんなピタッと沈黙するんです。それはもうマンガみたいに、見事に。同一個体であるということを認めたくないのかな、と思いました」
自治体の対応は…
2016年に秋田県で起きた十和利山事件においては、最初の食害事故に対する対応が不十分だったため、前代未聞の連続食害事故へと発展していった。
その意味で、クマによる人間への食害事故は初動がすべてといっていい。
では、実際に8日の事故を受けて北上市はどういう対応をとったのか。
