司法解剖の結果、クマに襲われた男性従業員の死因は「出血性」ショックとされた。『羆を撃つ』(文藝春秋)より、岩手県北上市の温泉施設で起きた事故を検証した「名物レフェリーはクマに連れ去られた」を紹介する。(全2回の1回目)

茂みを歩くツキノワグマ[環境省提供] ©時事通信社

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妻の慟哭

 瀬美温泉の代表取締役、岩本和裕は、遺体の身元確認に臨んだ。

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 傍らにはSさんの妻もいる。

「あの光景はもう……思い出したくないですね」

 遺体の頭部は全体を白い包帯で覆われていた。

 Sさんの妻の慟哭が部屋に響きわたった。

 司法解剖の結果、死因は「出血性」ショックとされた。

「ただただ申し訳ない、それしかなかったです。あのとき僕が彼に『うちで働けば?』と言わなければこんなことにはならなかった」

 実は岩本とSさんの関係は、単なる「雇用主と従業員」ではない。

 Sさんはもともと全日本女子プロレスをはじめとする複数の団体で活躍する名物レフェリーだった。温厚な人柄と公正な判定で「ささやん」の愛称で親しまれ、2015年からはプロレス団体「ゼロワン」の運営会社の副社長も兼ねていた。

 岩本はコールセンター事業を手掛ける会社を自身で経営していたが、ゼロワンのコールセンター業務を請け負ったことをきっかけに、ゼロワンの経営にも携わるようになった。

 そして2020年から同団体運営会社の代表取締役を務めることになったのである。

 岩本が当時を振り返る。

「僕が代表取締役に就いて、Sさんは取締役に退いたかたちですが、2人でもよく飲みに行きました。川崎の『餃子の王将』とかね。で、今でも覚えているんですがSさんは餃子をコショーと酢だけで食べるんですよ。ゼロワンの大谷(晋二郎)選手も同じように食べてたんで、あれはプロレスラーの流儀なんですかね。Sさんってほとんど喋らないんです。僕が一方的に喋って、Sさんは黙ってニコニコしながらそれを聞いているみたいな感じでした」

 岩本は同年に団体を去り、その後、経営不振に喘(あえ)いでいた瀬美温泉を買い取った。

 一方のSさんは、2025年2月にレフェリーを完全引退。巡業続きの生活を卒業し、家族と過ごす時間を増やすために伝手を頼ったのが、旧知の岩本だったのである。

 こうして同年3月、Sさんは妻と娘を連れて、瀬美温泉で住み込みで働くようになった。

「落ち着いたら、そのうちこっちでも飲みに行こうよなんて話をしてたんですが……」

 それから約7カ月後、Sさんはクマに連れ去られたのである。