露天風呂の獣臭
北上市猟友会の会長を務めるハンター、鶴山博(76)が瀬美温泉に到着したのは10月16日昼過ぎのことだった。
北上市の担当部署から〈温泉の従業員がクマに襲われて行方不明になった。捜索するのでハンターの人たちも来てほしい〉との依頼を受けて駆け付けたのである。
あのクマじゃないか――第一報を聞いた鶴山の脳裏を過ったのは、やはり8日にキノコ採りの男性を襲ったクマである。
この8日の事故現場には、鶴山も立ち会っていた。
まだ現場の山林周辺にクマが潜んでいる可能性があったため、現場検証をする警察官の護衛役を担ったのである。
現場は凄惨を極めていた。
「(被害者の)ご遺体は、ほとんどバラバラな状態で、性別もわからなかったほどです。離れたところに首らしきものがあるのが目に入りました」(鶴山)
被害者の遺体は、激しく食害されていたのである。
人を襲ったクマは即駆除が鉄則だが、現場は山深い場所である。山狩りをしてこのクマを追跡することは現実的とは言えなかった。
「現場から上流はダムへと通じており、クマはそっちに向かったんじゃないかと思ってました。
ただその後、13日に瀬美温泉で入浴客による目撃があった。だから『爆竹を鳴らして追い払ってください』と伝えていました。もし8日のクマが温泉の方に下ってきたんだとしたら、罠かけた方がいいな、と考えていたところで、16日の事故が起きてしまった」(同前)
瀬美温泉に着いてみると、規制線が張られる物々しい雰囲気の中、警察や消防の人間が行き交い、雨合羽を着込んだ報道陣も押し寄せていた。
警察による現場検証が行われている傍らで、鶴山は仲間のハンターと現場を確認する。
露天風呂は夏油川を見下ろす谷の縁にある。
柵の先は5メートルほどの斜面となって川へ落ち込み、対岸には急な崖がそそり立つ。
露天風呂への出入り口付近、柵のすぐそばに50センチほどの血だまりが広がっていた。
そして柵の下へと何かが引きずられたような痕跡があった。
クマの体毛や何らかの肉片らしきものも採取された。
川に背を向けて露天風呂の清掃を行っていた被害者が、川から上ってきたクマに背後から突然襲われて、連れ去られた可能性が高かった。
鶴山には露天風呂に入った瞬間から気になっていることがあった。
「クマのね、臭いがするんですよ」
被害者がクマに襲われたのだとすれば、獣臭が残っていたとしてもおかしくはない。
だがその臭いは、対岸からこちらに向かって風が吹いたときに漂ってくるようだった。
仲間のハンターとそのことを確認しながら、鶴山は周囲の警戒を続けた。
もしかするとクマはまだ付近にとどまっているのかもしれなかった。
結局、この日は二次被害を避けるため時ごろに現場検証と捜索を打ち切り、翌朝から本格的な捜索に入ることになった。
鶴山が現場を引き上げるとき、かすかにまた獣臭が漂ってきた。
(文中一部敬称略)
