内部はエンジンミュージアムになっていて、誰でも見学することができる……というわけで立ち寄ってみたら、外国人観光客で大賑わい。展示してあるクルマに乗り込んで興奮気味に話をしていたり、エンジンや日産の歴史のコーナーでも目を皿のようにして解説文を読んでいたり。いまも日本車、日産のクルマは外国人からの人気は根強いようである。

 日産自動車創業の地でもあるこの埋立地一帯は、1930年代に造成されたエリアだ。

 川崎から横浜にかけての臨海部は、明治後期から埋立が進んで急速に工業地帯として発展していった。大正期に開業した高島線は、京浜工業地帯の発展に伴う輸送需要の増加にも応じたものといっていい。

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再び復活した緑道を歩くと…日産の看板が見えてきた
日産自動車横浜工場があった。ここは同社の創業の地でもある

 そして関東大震災後の新しい埋立地が、新興線の走ったエリアだ。

 昭和初期に相次いで生まれた“新興”の埋立地には、恵比寿町・宝町・大黒町、またそれらを結ぶ橋には布袋橋や寿老橋といった七福神にちなんだ縁起のいい名前が与えられている。列強の仲間入りを果たした大日本帝国を支える新しい工業地帯に対する思いをこめて名付けたのだろうか。

 新興線は、埋立地の造成が終わって工場ができつつあった1934年3月に営業を開始している。日産自動車は前年の末に自動車製造という名で創業したばかり。新興線の開業を報じる1934年4月12日付けの読売新聞には、前身会社のひとつである戸畑鋳物の名で新興線からの引込線を持っていることが書かれている。

中央が産業道路の歩道、左手が廃線跡の緑道
ENEOSの工場が見えてきた

ピークには25社30本の引込線があった

 当時から他にも何本もの引込線があったようで、開業時の運転本数は実に1日16往復。埋立地には次々と工場が生まれた。営業開始の時点から、新興線とその沿線の新しい工業地帯は大いなる発展を約束されていたのである

 当然、その後も新興線の走る埋立地はますます隆盛を極めてゆき、戦後も戦前を上回る勢いで発展していった。最盛期には実に25社30本の引込線が新興線から分かれていたという。京浜工業地帯の規模と高度経済成長期の著しい経済発展の一端が窺える。

 ちなみにこの間の1965年、日産自動車横浜工場も節目を迎えている。ダットサンなど黎明期の名車を実に約66万台も送り出してきたが、この年からエンジンなどの部品工場に転換したのだ。といっても、規模縮小のようなネガティブな話ではなく、座間に新しく工場ができたから。イケイケどんどん右肩上がりの時代の物語、である。

かつての終点「新興駅」には何がある?

 新興線の廃線跡を辿る旅。遊歩道を進むと、日産自動車の先にはENEOSの工場がある。まるで都市対抗野球の組み合わせを見ているかのような並びの埋立地だ。