「健治だけなら専属契約を続けられる」と言われて下した決断とは

――新たなバンドで活動を続けるなか、音楽業界そのものにも大きな変化が訪れたそうですね。

岡平 2002年、2003年くらいからレコード業界全体が不況になっていきました。

 CDが売れなくなって、売り上げがドーンと落ちて、レコード会社の人たちもどんどん辞めていくような、そんな時代でした。雑誌社もラジオ局も、音楽まわりのメディア全体が厳しくなっていった時期です。

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 そんななかで、レコード会社側から「バンドメンバー全員との専属契約を解除したい」という話が来たんです。ただ、「健治だけなら専属契約を続けられる」と言われて。

――ご自身だけに契約を継続する道が残されたとき、岡平さんはどのような判断をされたのでしょうか。

岡平 そのときは一度、「メンバーと相談してきます」と言って、その場を出ました。

 メンバーに聞いたら、「健治のこれまでのキャリアを崩したくないから、一人でもビクターという大きい事務所に残ってほしい」と言ってくれたんです。もちろん、みんな本音ではバンドを続けたい。でも契約を残してもらえるのは僕だけという話だったので、僕は「じゃあ、俺も一緒に辞めるよ」と伝えました。

 その後、2009年に自分でレコード会社を立ち上げたんです。会社を作りたくて作ったわけじゃなく、仲間を捨てられないと思ったんです。

――その決断を後押ししたものは何だったのでしょうか。

岡平 仲間にご飯を食べさせなきゃいけない、という気持ちだけでしたね。他の会社に営業をかけるという発想は、なぜかありませんでした。自分自身はまだ音楽で売れ続けられる、という自信もありましたから。それだけが支えでしたね。

 今の会社は18期目になりますが、立ち上げてからの18年間は、正直、山あり谷ありでした。それでも続けてこられたのは、あのときの決断があったからだと思います。

会社立ち上げにあたり手放したもの、残したもの

――会社を立ち上げるにあたり、当時の私的な所有物についても大きな決断をされたそうですね。

岡平 そうですね。当時持っていた高級なものは、ほとんど手放しました。ルイ・ヴィトンのオーダーメイドのキャリーケースとか、高級車とか、いろいろ集めていましたけど、別にいらないな、って。会社を立ち上げた瞬間から、仙人みたいになりましたね。

――さまざまなものを手放された一方で、小学生の頃に使っていた給食袋を今も大切にしていらっしゃるんですよね。

小学生の頃に使っていた給食袋(写真=本人提供)

岡平 僕、お母さんが大好きなんですよ。

 これを作ってくれたとき、母はまだ20代だったんです。今の僕よりもずっと若かった母が、小さかった僕のためにこれを縫ってくれたんだなと思うと、なんだかキュンとしません? そう考えると、すごく愛おしく感じるんです。

 お母さんがペンで書いてくれた「おかひら」の文字は、消えかかってきちゃったので、上から自分でなぞりましたけどね(笑)。これだけは今でも大切に持っています。