「それで口座を開いてくれるわけないやろ」
顔を覚えてくれ、心配してくれる人がいる。これまでの訪問は無駄ではなかったのだ。翌週、名古屋へ戻ると約束どおり藤堂課長との同行訪問が始まった。
「おまえ、口座開設の話をしてなかったんかいな」
言われて初めて気づいた。私は断られるのが怖かった。相手との関係を壊したくない。嫌われたくない。だから、本題に踏み込まぬまま、雑談だけで帰っていた。
「熱心に通って、話も盛り上がっとるのに、肝心のお願いをしてへん。それで口座を開いてくれるわけないやろ」
その日、藤堂課長は見本を見せるように切り出した。
「せっかくですし、一度口座だけ作ってみませんか」
驚くほど自然な切り口で勧め、驚くほど簡単に契約になった。次の店でも、その次の店でも話は弾み、なかには他社から資産を移してくれた人までいた。
デキる営業・デキない営業の差はどこに出るか
帰り道、藤堂課長は諭すように言った。
「営業マンが飛び込み営業に行く回数は平均すると2.4回や。で、相手が口座開設してもいいと思うのは平均して3.7回目なんや。この1.3回で結果が変わるんや」
どこで聞いた理論なのか知らない。そもそも数字の根拠も怪しい。しかし、言いたいことはよくわかった。あと1回、訪問するかどうか。あと一歩、お客のフトコロに踏み込むかどうか。今回のケースでいえば、「口座を開いてください」と切り出せるかどうか。その差が大きいのだ。
藤堂課長はこの成果に気をよくした。課の契約が上がるのだから当然だろう。
その後、同期たちにも同行訪問を始めた。
すると、いくつかの事実が判明した。ある同期の日報では毎週訪問したことになっている会社が実際には存在しなかった。藤堂課長は激怒した。
あとで聞くと、同期たちの一部は午前中に喫茶店へ集まり、名古屋名物の豪華なモーニングを楽しんで午後に少しだけ営業していたらしい。ほかにも、生命保険に加入する代わりに口座を開いてもらったり、親戚や友人に頼み込んで口座開設をしてもらった者もいた。
私は安心した。みんな表面上は順調そうに見せかけていたものの、誰もが水面下では足をバタつかせていたのだ。