女学生のときに婚約して卒業後に結婚というのもまた、当時よくあるパターンだった。
暴君の父親が即日嫁入りを決めた
伯母としては、結婚は亮一が中学校を卒業後、就職してから時機を見て……ということで「まずは婚約だけでも」と、そのつもりで俊次に話をしたようなのだが。しかし、俊次は世間一般の考え方ができる男ではない。結婚の申し入れを受けるとすぐ千代を呼びつけ、「おまえ、これから藤村家に嫁入りするのじゃぞ」
そう言って、その日のうちに伯母に引き渡して連れ帰らせた。何がなんだか分からないまま、気がつけば昨日まで従兄だった亮一と夫婦になり、同じ部屋で寝起きすることになってしまった。亮一も親同士がいきなり勝手に決めた結婚に腹を立てていたようである。
初夜を迎える覚悟はできていなかった
じつは、千代は亮一の好みではなかった。また、彼は中学生のくせに遊び人、すでに恋仲の女もいたという。家を飛び出して彼女のところに行ったようで、そのまま何日が過ぎても帰ってこない。まだ初夜を迎える覚悟も準備もできていなかった千代にとって、それは幸いだったのだけど。
実家より平和な婚家になじめず…
伯母や伯父は優しく、千代のやりたいようにやらせてくれる。俊次に怯えながら暮らしていた実家よりも、よっぽど気楽に過ごせるはずなのだが。何故だか、どうも落ち着かない。
「そう言う父親のいるそう言う家を、家庭として育った子供であっても、子供の頃の私は、決して自分のことを、不幸な子供である、なぞとは思っていなかった」(『生きて行く私』)
千代にとっては暴君との暮らしが、慣れ親しんだ日常だった。慣れというのは恐ろしい。ピリついて緊張した実家の空気も、それが普通だと思えば気にならない。むしろ、慣れていないこの藤村家の穏やかそうな雰囲気のほうが、しっくりこない居心地の悪さを感じる。
藤村家で暮らすようになって10日が過ぎても、いまだ空気には馴染めずにいた。女学校から鉄砲小路にある藤村家への帰路は、錦帯橋を渡り大明小路を通るのが最短ルートなのだが、どうも橋を渡る気になれない。橋の袂でまわれ右。錦川に沿ってある土手の道を川西の方角に向かって歩きだした。