今こそ戦後を知ろう。なぜなら、現在の私たちはそれによってつくられているからだ。それを学び、何を受け継ぐべきかを腑分けすることで、これからの未来を変えていこう。

 そのような志の下、近現代史研究者の辻田真佐憲氏が『「戦後」とは何だったのか 未来を変える日本現代史』(文春新書)を上梓した。

 その序章で辻田氏は、「われわれ」が未来に進むための前向きな現代史が今こそ必要だと述べる。

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 本書から一部を抜粋してお届けする。

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 しばしば勘違いされているが、歴史は専門家や歴史マニアだけの占有物ではない。現実の政治に直結している。ウクライナを独立した国家として認めようとしないロシアのプーチン大統領の歴史認識が、実際の戦争と結びついたことを思い出せばよいだろう。

 日本でも事情は同じだ。歴史認識によって、本来必要な憲法改正が妨げられることもあれば、反対に不必要な改正が進められることもありうる。

 経済政策についても、もはや再現できない昔日の経済大国を取り戻そうとして、現実に合わない政策を選んでしまうかもしれない。歴史認識は、過去についての議論だけでは終わらない。世界情勢を変えることもある。だからこそ、けっして軽視することはできない。

 こうして歴史を現在につなげるうえで本書が重視するのが、「われわれ」という視点をためらわずに持ち込むことである。

 国民国家にせよ、「国民の物語」にせよ、突きつめれば一種の虚構だろう。しかし、現在の世界秩序は、そうした虚構を前提として成り立っている。重要なのは、「虚構にすぎない」と暴いて終わることではない。それとどのようにつきあっていくのかを考えることでなければならない。

 そして国民国家が存在する以上、そこには必然的に「国民の歴史」がともなう。それはときに暴走し、大きな災禍をもたらしてきた。しかし、だからといって、何の物語ももたずに済ませることもできない。どれだけ既存の物語を否定し、解体しようとしても、何らかの物語はかならず立ちあらわれてくる。必要なのは、時代の変化に応じて「国民の物語」をよりよいものへと更新していくことだろう。

高市早苗首相は今後どのような「物語」を語るのか ©文藝春秋

 その際、事実関係を重視しなければならないのはいうまでもない。ただ、それだけでは十分ではない。歴史が現在のわれわれとどのようにつながっているのか、という問題意識も必要になる。そもそも歴史には、その時代の価値観にもとづく解釈が避けがたく入り込む。そのことを自覚したうえで、歴史とわれわれとのあるべき関係を模索しなければならない。

 これまで述べてきた「戦後の物語」について、「そんなことはすでに指摘されている」という反論はあるかもしれない。だがここで問いたいのは、そうした知見が存在するにもかかわらず、なぜ単純な「戦後の物語」がいまなお広く流通し、現実の議論を規定するほどの力をもちつづけているのか、ということだ。

 どれだけ歴史家が「あの戦争」について日中戦争(やそれ以前)から考えなければならないと指摘しても、いまなお対米開戦がもっとも大きな歴史的な節目として語られる。そこには、アジアでの戦争を直視したくないというわれわれの心理が読み取れる。

 同じことは「戦後の物語」にもいえる。その物語を前提とした「戦前回帰」や「日本を取り戻す」といったことばの背後には、われわれのなんらかの願望や欲望が潜んでいる。そこをこそ問わなければならない。

 それは裏返せば、なぜ戦後史が事実の羅列に陥り、退屈なものとして受け止められ、現在を考える力をもちえなかったのかを問うことでもある。その原因のひとつは、歴史をみるうえで、いまを生きる「われわれ」という視点が抜け落ちていたことにあるのではないか。

 したがって本書がめざすのは、われわれに役立つ戦後史であり、われわれが未来に進むための前向きな現代史である。

辻田真佐憲氏
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