今こそ戦後を知ろう。なぜなら、現在の私たちはそれによってつくられているからだ。それを学び、何を受け継ぐべきかを腑分けすることで、これからの未来を変えていこう。
そのような志の下、近現代史研究者の辻田真佐憲氏が『「戦後」とは何だったのか 未来を変える日本現代史』(文春新書)を上梓した。
第一章「戦後日本は『平和国家』だったのか」で、辻田氏は「憲法九条のおかげで、日本は『平和国家』になった」という言説に疑義を呈し、1950年に始まった朝鮮戦争で日本人の「戦死者」が出ていたと述べる。
本書から一部を抜粋してお届けする。
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戦前の日本は戦争をする国だった。しかし、戦後は平和国家に生まれ変わり、ひとりの戦死者も出していない。それは憲法九条があったおかげだ――。
戦前と対比しながら、戦後の憲法を高く評価する。これは、戦後日本でもっとも広く信じられてきた物語のひとつだろう。たしかに麗しいものではある。だが、やはり一種の幻想といわなければならない。というのも、現憲法のもとでも日本はすでに「戦死者」を出しているからである。
これはけっして歴史上の些末なトリビアではない。戦後日本がどのように出発したのか、その“原点”を考えるうえで欠かすことのできない事実にほかならない。
歴史は、日本がいまだ連合国の占領下にあった1950(昭和25)年にさかのぼる。この年の6月、朝鮮戦争が突如として勃発した。
日本の植民地支配が終わったあとの朝鮮半島は、北緯38度線を境に、北部では北朝鮮、南部では韓国がそれぞれ建国を宣言し、互いに睨み合っていた。そうした緊張のなかで、北朝鮮が韓国への全面侵攻に踏み切ったのである。
この事態を受け、国連安全保障理事会の決議にもとづいて、米軍を主力とする国連軍が編成された。その最高司令官には、日本占領軍の最高司令官でもあったダグラス・マッカーサー元帥が就任した。
今日の安保理では、常任理事国が拒否権を行使することが多く、こうした統一行動を取ることはむずかしい。だが当時、ソ連は国連における中国の代表権が大陸の中華人民共和国ではなく、台湾の中華民国に認められていることに抗議し、安保理を欠席していた。そのため、ソ連が拒否権を行使できず、国連軍の編成が可能になったのだ。
もっとも、国連軍にはただちに朝鮮半島へ投入できる兵力が十分に揃ってはいなかった。第二次世界大戦後、米軍が日本をはじめとする極東地域の兵力を縮小していたからだった。そのため、開戦当初、韓国軍と国連軍は北朝鮮軍の急速な進撃を食い止められず、朝鮮半島南東部の釜山周辺にまで追いつめられた。
このままでは、北朝鮮が朝鮮半島を武力統一してしまう。その危機的な状況を一変させたのが、同年9月、マッカーサーの指揮で実施された仁川上陸作戦だった。
ソウル近郊の仁川は、黄海に面し、現在では韓国を代表するハブ空港・仁川国際空港があることで知られている。ここは航路が狭いうえに潮の干満差が大きく、大規模な上陸作戦はほとんど不可能と考えられていた。
だが国連軍は、あえてその仁川に上陸を実行した。背後を突かれた北朝鮮軍は総崩れとなり、国連軍は一気に反撃へ転じてソウルを奪還した。仁川上陸作戦はもっとも鮮やかに成功した上陸作戦のひとつとして、マッカーサーの名とともに戦史に永く刻まれることになった。
勢いづいた国連軍は、今度は日本海側の元山への上陸も企図した。
だがそこで大きな障害が立ちふさがった。北朝鮮によって海上に敷設されたソ連製の機雷だった。機雷は艦船に接触するなどして爆発する。そのため、上陸作戦をまえにこれを除去しなければならなかった。
このとき米軍が白羽の矢を立てたのが、日本の掃海部隊だった。
