1945(昭和20)年の敗戦時、日本近海には、戦時中に日本軍や米軍が敷設した多数の機雷が残されていた。船舶の安全な航行を確保するには、これらを取り除かなければならない。日本は占領軍の命令を受け、機雷除去作業(これを掃海という)を行っていたため、高度な技術と豊富な経験を備えた掃海部隊を有していた。
米軍はその実力に着目し、朝鮮沿岸での掃海にも協力を求めてきたのである。
ちなみに、この掃海作業の中心を担ったのは、旧海軍の人材だった。敗戦によって旧海軍自体は解体されたものの、掃海には特殊な技能が必要だったため、旧海軍の人材が例外的に引き続き任務にあたっていたからだった。
こうした事情により、掃海部隊は旧海軍の人材プールとなっており、所属先を変えながら、やがて海上自衛隊のルーツのひとつとなっていく。
とはいえ、朝鮮沿岸での任務はたんなる戦後処理とは言いがたかった。前述のとおり、対象となる機雷は、北朝鮮が新たに敷設したものだった。しかも、派遣されるのは戦闘が行われている海域となる。憲法九条との関係も問題になりえた。
それでも当時の日本にとって最大の課題は、できるだけ早く講和条約を締結し、主権を回復することだった。米国の要請を拒めば、不興を買い、講和への日程に悪影響が及ぶかもしれない。
米国の反発を覚悟して要請を断るのか。それとも、危険を冒して協力するのか。
最終的に、吉田茂首相は後者を選んだ。ただし、国内外に政治的な波紋が広がることを避けるため、掃海部隊の派遣は極秘裏に進められることになった。
こうして1950年10月、特別掃海隊が編成され、山口県の下関港から朝鮮沿岸へと密かに出動した。当時、掃海部隊は海上保安庁に所属していたため、派遣された隊員たちの身分も同庁職員だった。
派遣先は元山にとどまらず、黄海側の群山、海州、鎮南浦にも及んだ。秋から冬にかけての荒天のなかで作業は難航し、隊員たちは危険と隣り合わせの任務を強いられた。
そして10月17日、元山沖で掃海艇MS14号が機雷に接触し、爆発する重大な事故が起きた。この事故により、1名が死亡し、18名が重軽傷を負った。
この元山の事故で犠牲となったのが、当時21歳の中谷坂太郎という青年だった。国家の命により、戦争にともなう掃海任務に従事して、そのさなかに命を失った――。まさにそれは戦後日本の「知られざる戦死」にほかならなかった。
このような犠牲を払いながらも機雷除去が進み、国連軍は同月26日、すでに韓国軍が占領していた元山へ上陸を果たした。
朝鮮戦争は、米軍から日本に軍需物資などの大量の注文が舞い込み、いわゆる特需景気をもたらしたことで知られている。それによって、日本経済の復興は大きく加速した。
また、朝鮮半島へ出動した米軍に代わって国内の治安を維持するため、のちの自衛隊へとつながる警察予備隊が創設される契機ともなった。
こうした意味で、朝鮮戦争こそ“戦後日本の原点”だったといえる。その重要性は、いくら強調してもしすぎることはない。
そしてその陰には、日本人が戦地へ派遣されて「戦死」するという、もうひとつの見逃すことのできない重大な現実があったのである。
