日本やドイツなどでは、保育、介護、家事、感情面の調整といったケア労働の多くが家庭内に置かれ、とりわけ母親に集中しやすかった。母親が日常的な養育の多くを担わされてきたことが、母娘問題や母子関係の摩擦を前景化させる一因になったのである。
食事や身の回りの世話だけでなく、学校との連絡、健康管理、習い事、進路選択、さらに子どもの感情への対応までもが母親に集中しやすかった。子どもと接する時間が長く、関係が密接である分、摩擦や支配も母親とのあいだで可視化されやすくなる。
一方、父親の影響は別の形で見えにくくなることがある。
家庭にほとんど関与しない、威圧的な態度で家族を黙らせる、経済力を使って家族を支配する、母親へ育児と家庭内の感情調整を押しつける。父親が直接子どもへ細かく介入していなくても、その不在や家庭責任の放棄が、母子関係を過度に密着させている可能性もある。
母親が子どもに強く依存し、過剰に干渉しているように見える家庭でも、その背後には、夫婦関係の孤立や父親の不在があるかもしれない。
ただ、そうした背景を理解することは、母親の行動を免責することではない。母親が置かれた状況を理解しながら、子どもに生じた影響は分けて考える必要がある。
短く強い言葉は広がりやすい
毒親という言葉は、インターネットやSNSの時代に適していた。
自分の家族の状況を詳しく説明しなくても、「毒親育ち」と言えば、親との関係に深い苦しさがあることをある程度伝えられる。匿名で経験を共有し、似た体験を持つ人を見つけることもできる。家庭のことを誰にも話せず、自分だけがおかしいと思っていた人にとって、同じ文脈を共有する共通語の存在は大きな支えになる。
しかし、短くて強い言葉は、文脈を削る。数十年にわたる親子関係が「毒親か否か」という二択に圧縮される。一つの発言を切り取って、他人の親を毒親と安易に判定するようなことも起こりやすくなる。
進路について反対されただとか、高校生になっても鞄の中身を密かにチェックされていただとか、そうした一場面だけを見て、親子関係の是非の全体を判断することは困難である。
それぞれの家庭は密室の中で運営されていて、完璧な家庭のプロトコルがあるわけでもない。ある部分は他の家庭よりも優遇され、ある部分は厳しいといった、「良悪」入り乱れた構造になっていることだろう。ほとんどの家庭がヘルシーとアンヘルシーの間のグラデーションの中にあるはずだ。課題のない人間がいないのと同じように、課題のない家庭などない。
毒親という言葉は便利だが、よりよい未来のために自分に起きた影響を具体的に検討するには粗いのである。
