親役割化には、大きく分けて二つの形がある。
一つは、家事、きょうだいの世話、金銭管理、病気の親の介助などを、子どもが過度に担うことである。もう一つは、親の愚痴を聞く、夫婦関係の相談に乗る、落ち込んだ親を励ます、家庭内の空気を安定させるといった、感情的な役割を担うことである。とくに後者は、外から見えにくい。
親子で仲よく話しているように見える。母親は娘を「親友のような存在」「何でもわかってくれる子」と表現するかもしれない。しかし、子どもが聞かされているのは、配偶者への不満、生活への絶望、経済的な不安、死にたい気持ちなど、子どもが処理するには重すぎる内容であることがある。
「あなたしか話せる人がいない」「あなたがいるから生きていける」、こう言われれば、娘は自分が母親を支えなければならないと感じるだろうし、母親を置いて自分だけ幸せになることが、裏切りのように思えてくるかもしれない。
親役割化の問題は、その役割が子どもの発達段階を超えており、その役割を断る自由がなく、自身の感情や必要が後回しになることである。子どもが家庭を支えることは美徳かもしれないが、家庭を支えなければ子どもでいられない、となれば健全とはいえないだろう。
「世話をする能力」と「世話をやめられないこと」は違う
親役割化を経験した人は、大人になってからも、周囲を支えることに長けている場合が多い。相手の声の調子から相手のニーズを察知したり、その場に求められていることをすぐに読み取ることで、先回りができたり、他者に対しての情緒的なケアにも長けるようになりやすい。こうした能力は、社会生活のなかで非常に高く評価される。
本人も、「人を助けるのが好き」「困っている人を放っておけない性格」と理解しているかもしれないし、それ自体は事実であろう。家庭環境への適応として身につけた能力が、本人の才能になることはある。
ただし、その才能を発動するか否かの自由がないとしたら話は別だ。頼られると嬉しいし、他人の問題にはいくらでも時間を使えるが、自分が頼ったり休んだりするとなると罪悪感を覚える、となれば、それは役割から降りられなくなっている可能性がある。
健全なケアには、「ケアしない自由」も含まれる。
助けたいとき、あるいは助けられるときには助けるが、できないときには断ることができるし、相手を気遣いながら、自分の疲れも同じように考慮する。「支える側」と「支えられる側」の立場の往復ができることが重要なのだ。
