或(あ)る日の午後、私は学校の帰りに、あの鉄砲小路の家の方へ帰るために渡る筈(はず)の、錦帯橋を渡らなかった。この錦帯橋と言う橋は、日本中で誰ひとり知らぬものはない、名の知れた橋であるが、学校の往き帰りに、五つある反り橋の段々を上ったり下りたりして渡るのは、私にとっては何となく厄介に思われた。と言うのは、ついこの間まで私は、この錦帯橋を渡らないで、学校のある横山と言うところから、川岸に沿うて、そのまま、川西の家の方へ歩いて行けば宜(よ)かったからである。
実家に戻ると、暴君の父が急変
錦帯橋を渡らないで、私はどうする気であろう。「お母」と低い声で呼んで、私はうちの台所へ廻った。「やれ、千代さんかいの」と答えた母の声を、私はどう言う気で聞いたか。父は時計の間で寝ていた。「ああた、千代さんがおいでましたでよ」。父の声は聞こえなかった。父は私が鉄砲小路の家へ行ってから、ずっと寝ていたと言う。幾度も血を吐いたと言う。
「お父さま」と私は声をかけた。その顔はこの十日の間に、まるで変わっていた。眼窩(がんか)は落ち窪み、骸骨(がいこつ)のようであった。「足を撫(な)でてくれい」と言った。鉄砲小路からなぜ戻ったかとも、早く往ね、とも言わなかった。そうだ。父が病気なのだ。私はこのまま、この家にいても好いのだと、私はそのときそう思った。父がこんなに病み衰えているのを見て、それを悲しむより、もう、あの、鉄砲小路の家へ帰らなくても好(よ)いのだと言うことが、何とも嬉しかったのを私は忘れない。
「足を撫でてくれい」と言った父が死去
翌日、私はこの父のために、阿品(あじな)と言うところにあるお大師さまにお詣(まい)りした。阿品までは三里(約十二キロメートル)の道程(みちのり)がある。阿品の大根と言って、漬物にする大根の産地として名高いところであるが、いまでも田舎に帰って、この大根を見ると、あの昔、父のためにお大師さまへお詣りしたときのことを、私は思い出すのであった。
