失われたもう一つの『踊る大捜査線』

 澤田鎌作版『踊る』の特徴は、恩田すみれの怒りの表現だけではない。女性被害者への怒りに我を忘れそうになる恩田刑事を大型犬のように困った顔で引き止めながら、最後には「でもさすがにそれはないでしょ」と当たり前のように彼女の隣に立ってくれる青島刑事や真下正義。まだDVもストーカーも社会認知が十分でなかった90年代、澤田演出が描く青島たちは「意識の高いフェミニスト男性」ではなく、単純だったり頼りなかったりするけれども現代の感覚を持った普通の男の子たちとして、怒れる氷河期女子の象徴である恩田すみれの隣に立っていた。

 その柔軟で繊細な新しい世代の男女描写は、「絵にかいたように高飛車な女性キャリア官僚が現場を無視した指示を連発し、最後にはみじめに失敗して去っていく」という、日本映画の輝かしい最高動員記録を打ち立てた劇場版第2作の展開にはない、失われたもう一つの『踊る大捜査線』である。

青島俊作と恩田すみれ 『踊る大走査線』シリーズ公式Xより

 澤田演出が良く、本広監督が悪い、という粗悪な善玉悪玉論をするつもりはない。青島たちが大きく動き、スペクタクルとお祭り感のある本広克行監督の演出の方が劇場映画に向いているのも事実だ。だが織田裕二が語るように、「水と油のように相反する2人の監督が作品に奥行きを与えた」という構造の片方、恩田すみれの怒りと繊細な人間ドラマを描く「もうひとつの踊る大捜査線」が、ある時を境に失われたのは事実である。どれだけ大ヒットしても常に賛否が分かれ、しかし酷評したファンすらまた何かを求めて劇場に戻ってくる『踊る』シリーズの謎の影には、この「2つの大捜査線」があるのではないだろうか。

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 最新作の前に公開された『室井2部作』にしても、『北の国から』を思わせる静かなドラマを作れていたのになぜ最後に重要な人物が失われる結末にしてしまったのか、納得できないと思うファンは多い。それは本広克行監督の演出や君塚良一の脚本というより、フジテレビ製作のコンテンツにしばしば起きる不可解で理不尽なファンとの乖離に思える。

『踊る大捜査線』で描かれる上下の構造はサラリーマン社会の隠喩として共感された、ということはよく語られる。だが同時に、湾岸署はほとんどフジテレビの隠喩でもあった。「スリーアミーゴス」の名で愛された軽いおじさん上司たちは、当時のバラエティで流行していた「出たがりプロデューサーたち」をモデルにしているように思えたし、一見軽薄に見える彼らの上に冷たい権力が存在するのもテレビ局の隠喩として優れている。青島や恩田すみれたち所轄の刑事は下請け制作会社のスタッフたちのようだ。

 2010年前後まで入社面接で「セクシーポーズを見せて下さい」と要求していたと現役女子アナに回顧されるフジテレビの中心で、もっともフジテレビ的ではない恩田すみれの怒り、彼女に寄り添うようにモッズコートの襟を立てて寒い道を歩いていく青島刑事を描いた作品に、多くの同世代、氷河期世代が惹きつけられたのではないだろうか。

 今回の新作『踊る』映画では、恩田すみれが登場しない。劇中終盤で青島刑事が恩田すみれと思われる相手に携帯で電話をかけ「ここは出るところでしょ」と独り言をつぶやくくだりは、「出る」に「出演」をかけて深津絵里にラブコールを送っています、と言わんばかりのシーンだ。

 恩田すみれというキャラクターが女優としての深津絵里のキャリアに与えた影響は大きい。澤田鎌作演出による『彼女たちの時代』はもちろん、『きらきらひかる』『カバチタレ!』などで彼女が演じたヒロインたちは、まるで遺伝子のように恩田すみれの「怒り」を受け継いでいた。それは野木亜紀子ら次の世代による『アンナチュラル』といった作品にも影響を与えたと思う。

 今年、東京芸術劇場で野田秀樹演出の『華氏マイナス320°』で、現代の女性研究者と古代の女王を演じ分ける深津絵里を見た。まさに半神半人、と呼びたくなるような美しさの中、今もそのどこかに恩田すみれが抱えていた「怒り」の面影がある。彼女が最新作に出演しない、ということもまた、ひとつの表現でありメッセージなのかもしれない。