なにより心を動かされたのは、第一生命の制度という信頼感や利率の高さよりも、半世紀に及ぶ関係だった。
のちに預けることになる1000万円は、自身が保有するマンションのエレベーターを改修するために積み立てていた資金だった。老朽化していたことから、部品がなくなってしまう前に更新する必要があった。余剰の資金ではない。文字どおりの虎の子だった。
第一生命の応接室で社員を従え、堂々と借用証書を…
結局、1000万円を預けることに決めた。電話で伝えると、正下は涙声になって喜んだ。
〈有難う。漸くこれで私の顔が立ちます〉
ヨウ子もうれしかった。
10日後、入金の手続きを済ませた。
正下に電話でそう伝えると、その日のうちに借用証書を書いて渡したいので、第一生命の徳山分室まで来てほしいという。私が訪ねたときにはシャッターが下りていた、あの建物だ。
徳山分室には、正下の特別室が設けられていた。のちに入手した扉の写真には、「正下特別調査役室」と黒字で記された白地のプレートが掲げられている。第一生命の関係者によれば、同社で個室を与えられている保険外交員は一握りだという。しかも正下には、下関市にある山口支社にも個室があった。名実ともに「特別」な存在だったのだ。
ただし、ヨウ子が通されたのは、その特別室ではない。『マインカンプ 特別篇』の記述を借りれば、〈北側の部屋で窓は全く無く、何となく暗い感じ〉のする10畳ほどの応接室だった。同書には、その応接室の俯瞰図が描かれている。テーブルを挟んで二つのソファが向かい合う配置だ。
ヨウ子と正下はそれぞれに腰かけた。
正下は寒がりだといい、えんじ色のスーツの上にカシミアのコートを羽織っていた。
室内には、正下の30代の女性秘書〈Tさん〉と、山口支社のマネージャー〈Mさん〉が同席していた。それぞれ高村某と「正下特別調査役担当」だった松井某である。
正下はバッグから便箋を取り出し、借用金額や返済期限、借主名、貸主名を万年筆で記した。さらに、〈Tさん〉に朱肉を差し出させ、〈Mさん〉には収入印紙を買いに行かせた。そしてヨウ子にこう告げる。
〈もし途中でいつでも入り用になられましたら御申し出下さい。いつでも御返致します〉
〈銀行よりもはるかに多く会社が上乗せしてつけてくれますからおまかせ下さい〉
のちに詐欺だと発覚したとき、ヨウ子はこう振り返っている。
〈現役の社員が、社の応接室で所長(筆者注・松井某)と秘書の立会いの上で堂々と借用証書を書き実印まで押しているのにサギだったとは理解出来ない〉
もちろん、この時点では大金を預けることに不安を抱いていない。むしろ〈清々しい気分だった〉と記している。
