契約書は届かず、電話しても話せなくなって…
正下はこの場で、契約書を後日渡すと約束した。
だが、それはいつまで経っても届かなかった。
それでもヨウ子は正下を信頼していたので、気にも留めなかった。
ヨウ子が別件で正下に電話すると、そのたびに〈お預かりしたお金はちゃんと本社に渡してありますからね〉と、安心させるような言葉をかけられた。
そのうちに、正下とは連絡がつかなくなった。自宅に電話がつながることはあったものの、毎度出るのは、兵庫県芦屋市に住んでいる正下の長女だった。
〈母は体調を崩していますので〉
長女は電話口でそう告げるだけだった。
正下に金を預けてから3ヵ月以上が経った7月9日。マネージャーである〈Mさん〉から電話があった。なぜだか第一生命の本社の社員と弁護士が会いたいという。
ヨウ子は指定された徳山分室に出向いた。その場で第一生命の本社の社員から、正下に預けた金について会社は受け取っていないと知らされた。
それまで会社が公認している取引だと思っていたものが、否定されたのだった。
第一生命の調査報告書によると、この前月、正下の関係者から内部告発があった。
会社は社内を調査し、不正行為を確認したうえで、正下との委嘱契約を解除している。懲戒解雇に相当する処分だった。
さらに、詐欺容疑で山口県警周南署に刑事告発している。
ヨウ子は徳山分室で、第一生命側から謝罪の言葉を一度も受けなかった。すでにこのときまでに、同社の社員から正下の認知症を疑う声も耳にしていたので、〈Sさんが勝手に呆けてやったと言う事にするつもりらしい〉と思った。
取引の場に社員が同席していたことを追及したものの、第一生命側は「同席の事実は確認されていない」と説明するにとどまった。
そこでヨウ子は第一生命と正下を相手取り、山口地裁周南支部に損害賠償を請求する訴えを起こす。
時を経て第一生命から和解案が提示され、それを受け入れることになった。
返還されたのは、預けた1000万円だった。それは元本に限られ、弁護士に払った費用までは取り戻せなかった。
一方で第一生命は最後まで、マネージャーの〈Mさん〉や秘書の〈Tさん〉が不正の現場に同席したこと、並びに正下の使用者責任については否定した。後者については会社と正下の間には委嘱契約があるだけで、雇用関係は存在しないためだという。
その説明を聞いた際、ヨウ子が次のような疑問を抱いたのは、これまたもっともだろう。
〈正式社員でなければ何故あんな御大層な名刺を持たせて野放しにしているのか〉
第一生命もこの点について問題であることを認め、「特別調査役」の制度と「上席特別参与」の称号を廃止した。
こうして事件は真相が曖昧なままに、いったんの決着を見せた。