病床に伏せている夫に向かって「受取人を奥様に…」
正下は一歩も引かなかった。
「奥さん、こういうときこそ、しっかりなさいませ」
続けて、決然とした感じでこう言い放った。
「私が代わりに言います」
そして一人で病室に入っていった。そのまま病床に伏せている忠雄のもとに向かうと、こう切り出した。
「家族全員が幸せに暮らすために、お金のことは私に任せていただけませんか。先生の保険ですが、闘病されている間だけでも一時的に受取人を奥様に変更してほしいのです。先生が元気になられた暁には、契約を元に戻しましょう。ぜひとも家族全員のためにそうなさってください」
千鶴子は離れた場所で、そのやり取りをじっと聞いていた。
忠雄は正下の提案に耳を傾けた後、しばし黙した。
やがて、それを了承した。自らの運命を悟ったのだろうか。
一年もせずに、忠雄は亡くなった。
生命保険は個人契約に変更したままだった。
青葉が繁るなか催された葬儀には、正下も参列した。
千鶴子の記憶によれば、その席で正下のすぐ傍らに、常に寄り添うように立つ男がいたという。
すらりと背が高く、無駄のない所作。場にいるだけで空気が変わるような威厳があった。
当時は山口銀行の専務。のちに頭取となり、周囲から「山口銀行のドン」と呼ばれることになる田中耕三(1926-2021)だった。
なぜ専務が、一開業医の葬儀に足を運んだのか。千鶴子は後年、こう漏らしたという。
「支店長さんなら分かるけれど、あんな偉い方が来られるとは思わなかった」
正下は、その田中と並び立ち、遺族の前で静かに頭を下げていた。
少なくとも遺族の側から見れば、正下は保険を契約した第一生命の営業職員であるだけでなく、病院への融資元である山口銀行の重役とも並んで現れる人物だった。
それは、ただの弔問だったのか。それとも、別の意味を持つ同席だったのか。
