こうした文学者たちの交流は、後に川端が「湯ヶ島文学」と呼ぶ世界を育んだ。

「尾﨑士郎や宇野千代や故梶井基次郎らの伊豆湯ヶ島文学は私の手柄でもある。あんなに文士が陸続と不便な山の湯を訪ねたのは、伊豆としても空前であろう」(川端康成「湯ヶ島温泉」より)

夫とすれ違う一方、梶井との関係が噂に

「尾﨑とその娘とが式を挙げた、とはどう言うことか。両親を納得させるために、かための盃を交わしたと言うことか。そんなことがあってなるものか」
(『生きて行く私』より)

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1927(昭和2)年12月19日、『時事新報』で尾﨑士郎の初めての新聞小説「世紀の夜」の連載が始まった。千代は湯ヶ島で初めてそのことを知った。

この頃、千代と尾﨑は代わる代わる湯ヶ島に滞在するようになり、すれ違いが生じていた。馬込で「宇野千代は湯ヶ島で梶井基次郎という学生と親しくしている」という噂が飛び交う中、梶井から上京を知らせるハガキを受け取った千代は、無邪気にそのことを触れ回った。

「梶井が馬込へ来るということは、私にとって、確かに嬉しいことでした。しかし、私がそれをふれ歩いた家の人々まで、私と同じやうに、それを嬉しいことと思ってゐたでせうか。そのときの私には、それさへ客観出来ないほど、何か逆上(のぼ)せた感情があったと言ふのでせうか」(『私の文学的回想記』より)

3人が参加したパーティーで一触即発

連載小説で作家としての地位と収入を得た尾﨑は毎夜のように出歩くようになった。しかも、銀座のカフェー・ライオンのウエイトレス、古賀清子という恋人もできていた。ライオンの客は文壇関係者が多く、広津和郎や間宮茂輔らの夫人も元はライオンのウエイトレスだった。

尾﨑に千代という妻があることは周知の事実だったが、尾﨑は清子の道玄坂(渋谷区)の家で挙式のまねごとをし、そこまでしながら尾﨑は時々馬込の家に帰って来た。老母や兄夫婦が千代の元で暮らしていたからである。