1928(昭和3)年1月、湯ヶ島から上京した梶井は萩原朔太郎や広津和郎を訪ね、萩原に連れられてダンス好きで知られる絹巻省三の家で開かれていたパーティーに加わった。間もなく改造社の記者と酔った尾﨑が現れ、千代の眼前で一触即発の状況になった。
同席者の仲介で事なきを得たものの、火のついたタバコを叩きつけたとか、肥後守(折り畳みナイフ)を投げたなど、尾ひれのついた話が馬込を駆け巡った。
「その晩を境として私の家庭生活は実質的に崩壊した。あまりにも純粋すぎるものが純粋なるが故に崩壊するのは当然である」(尾﨑士郎『酔中一家言』より)
30歳、麻雀と酒に溺れる「動物状態」
尾﨑と清子は友人宅やホテル、借家などを転々とし、馬込の今井達夫の家の二階に落ち着いた。
千代の家で酒宴が開かれることはなくなり、手料理も、借金をして酒を買う必要もなくなった。大森海岸の三浩館や鈴ヶ森のポプラハウスを仕事場とした千代は麻雀に興じ、ドイツ製の睡眠薬を飲んで少量の酒を飲むことを繰り返し、束の間の恋に身を任せた。
「この時期の自分のことを、私は自分で、動物状態と言うふ名で呼びました。幾つかの小さな恋愛をしたのもこの時期です」(『私の文学的回想記』より)
ある日、千代は大森海岸の蟹料理へ誘われた。尾﨑の隣には子供のように幼い娘がいて、二人は酒がまわると歌い始めた。
千代がすべてを理解した瞬間
「尾﨑が例によって、眼を閉じ、首を振り、人の心をそそるような声で、唄を唱い始めると、娘もまた、尾﨑とそっくりに眼を閉じ、首を振って、その同じ唄を唱うではないか。私はそのとき、凡てのことを理解した」(『生きて行く私』より)
尾﨑の恋人が子供のように幼いことに打ちのめされ、放埒な、自暴自棄とも見られる日々を過ごしていた千代は1928(昭和3)年、『改造』7月号に「老女マノン」を発表した。それは「自身を投影させながら物語を造り上げていく方法の確立であり、千代は自らの文体を手に入れたといってもいい」(尾方明子『宇野千代』より)作品で、負の体験さえも文学に昇華させる千代独自の作風が生まれる転機となった。