この作品には、天才数学者の石神哲哉という人物が登場する。彼は隣人が犯した殺人の罪を隠蔽するため、ある計画を立てる。その工作によって、警察が容疑者と睨んでいた人物に完璧なアリバイが成立し、捜査を担当していた草薙はいつものように湯川に相談を持ちかけるが、石神は湯川の大学時代の友人だった。

『容疑者Xの献身』

 それまでの湯川は、個性的なキャラクター造型は施されながらも謎解きのための装置にとどまっていた。東野はこのシリーズ初の長篇で、湯川の人間性の描写に踏み込もうと考えた。石神という、友人にして互角の知性の強敵でもある人物との頭脳戦によって、湯川は最後に深く苦悩する。

この作品でついに直木賞の栄冠に

 それまで幾度も直木賞にノミネートされながら受賞を逸してきた東野だったが、この作品でついに第134回直木賞の栄冠に輝くことになる。更に、第6回本格ミステリ大賞(小説部門)も受賞した。ただし後者の受賞をめぐっては、所謂「容疑者X論争」が起きている。数多くの傑作・秀作を生み出してきた東野だが、恐らく、遥か後世まで残る二大代表作は『白夜行』(1999年)と『容疑者Xの献身』ということになるだろう。

ADVERTISEMENT

『容疑者Xの献身』(連載時「容疑者X」)は「オール讀物」2003年6月号から連載開始

 また東野は、犯人視点からの犯行計画と、それが論理的に解明される過程を主眼とする「倒叙ミステリー」の多様な可能性を追求してきた作家でもあった。その意味では『容疑者Xの献身』は、加賀恭一郎シリーズの『赤い指』(2006年)などとともに、東野流の倒叙ミステリーの到達点と言える。

 ここからは、短篇では従来のように怪現象の科学的解明を主とし、長篇では科学の要素よりも、人間心理の謎の解明、および事件に接した湯川の人間性の描写がメインとなることが多かった。

 ただし、短篇と長篇とで傾向が綺麗に分かれるわけではない。例えば第三短篇集『ガリレオの苦悩』(2008年)は、事件関係者が湯川の恩師や友人だったり、湯川に挑戦状を突きつける犯人が登場するなど、彼が当事者として事件に巻き込まれる作品が多い。

『ガリレオの苦悩』

 また、この短篇集で重要なのは内海薫刑事の登場である。「落下(おち)る」で、草薙の後輩にあたる彼女は、不可解な転落事件について意見を聞くため湯川の研究室を訪れる。『容疑者Xの献身』の苦い結末が原因で事件捜査への協力から手を引いていた湯川だが、トリックの実験を試みる彼女の姿を見て協力することになる。その意味で彼女は、湯川の復活に不可欠だったキャラクターだ。