故・谷村新司さんの激しいものまねで知られるダンシング☆谷村さん。芸能事務所「ジンセイプロ」代表も務め、芸歴40年を目前にしたベテランタレントだが、60歳でお笑い養成所「タイタンの学校」に入学。現在は、新人芸人として再挑戦の最中にいる。
もともとは公害防止の技術者を目指していたが、アルバイト先のパブで司会を任されたことをきっかけに、人前で笑いを取る面白さを知った。そこから芸人を目指すものの、最初に経験したのは男同士のローションプロレスだった。
試行錯誤を重ねながら人前に立ち続けた経験は、いかにして彼独自の芸へとつながっていったのか。話を聞いた。(全4回の1回目)
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公害防止主任管理者を目指したが「俺ってもう死ぬまで誰とも話さないのかな」
――ダンシングさんとお呼びすればいいのか、それとも谷村さんの方がいいのか。どちらの方が呼ばれ慣れているのでしょうか?
ダンシング ダンシングですね。☆はなくても大丈夫です(笑)。
――わかりました(笑)。では、ダンシングさんと呼ばせていただければ。ダンシングさんは、元々は工場の水質などを調べる測定士になる予定だったとお聞きしました。
ダンシング 高校まで野球をしていたんですけど、肩も肘も壊していたので、手に職をつけなきゃいけないと思って、公害防止主任管理者を目指したんです。それで、大田区・蒲田の日本工学院専門学校の公害工学科に新聞奨学生として入学しました。弟と妹がいたため、金を使うわけにはいかないので、住み込みで集金、配達をやって。当時は、労働時間が10時間近くあって、集金で達成できなかった分は自腹。しかも、刑務所から帰ってきた先輩配達員と一緒の部屋に、2段ベッドで寝てました。
――昭和らしいハードモードですね……。
ダンシング 僕は芸人になるまで人見知りが激しくて、大人しかったんですよ。ほとんど誰とも話さない生活。公害防止主任管理者って、基本的に河川敷で水質汚濁や大気汚染などを黙々と調べる仕事なんですね。あるとき、このまま就職したら、「俺ってもう死ぬまで誰とも話さないのかな」って考えちゃって、急に怖くなっちゃった。それで何か違うことはないかなと思って、夜間大学を受け直すことにしたんです。
唯一、受かったのが神奈川大学の短期大学部。入学すると、警察官はいるし、自衛官もいるし、いろいろな人がいて面白かった。新聞専売所の寮生活から横浜に移り住んだこともあって、自由を手に入れた気分になっちゃって。それでやってみたかったバイトをとにかくやってみようと思って、あらゆるバイトをしました。その中に、パブのウェイターがあったんですけど、やっぱり華やかなんですよ。生演奏に合わせて、すらっとした若いお姉さんが歌っていたんですけど、後のクリスタル・ケイのお母さんだった。上手かったなぁ。


