しかし計画は…
果たして、1971年9月8日に実行された計画は失敗に終わる。側近の国務院総理・周恩来(当時73歳)より事前に暗殺計画の情報を知らされた毛沢東が、専用列車を当初の杭州から直接北上させ上海で下車するルートから、紹興へ迂回させたうえ上海で下車せず12日に北京へと戻るルートに変更したからだ。ちなみに、中央警衛団を介して周恩来に計画を密告したのは林彪の娘で、母・葉群と不仲だった林立衡(同27歳)とされている。
北戴河の別荘にいた林彪一家に計画失敗の一報が入るのは9月12日夜。林立果らは直ちに「毛主席が自分たちを粛清するつもりだ」と判断し、深夜、父母らを強引に車に押し込んで山海関空軍基地へ急行。13日午前0時32分ごろ、林彪、葉群、林立果、パイロット、整備士ら計9人を乗せた中国人民解放軍所有のイギリス製ホーカー・シドレー トライデント1E型機が十分な給油もせずに、強行離陸する。
機体は亡命先のソ連領を目指して北上した。が、モンゴル領内に入った直後の午前2時30分ごろ、同国ヘンテイ県ベルフ市の10キロ南方付近の草原に墜落。機体は大破・炎上し、乗員全員が死亡した。
事件の第一報は周恩来らに伝えられ、毛沢東は「天要下雨、娘要嫁人、由他去吧」と述べたとされる。これは周恩来が毛沢東に「飛行機を撃墜すべきか」と確認した際に出た言葉で、「林彪が去りたがるなら、止められない。由他去吧(好きにさせろ)」という、諦めと冷徹さを表したものだそうだ。