沖縄市の若者の地元志向はなぜ高いのか。青年会の存在も一つの要因になっているのではないか――。
「エイサーがあるから、僕は帰って来たんです」。沖縄市観光物産振興協会の職員、宮城高士さん(三十七歳)が話す。宮城さんは東京で二年間働いていたが、青年会活動のために帰郷した。
同市の青年会は、三十七の自治会のうち二十二で結成されている。中学校を卒業すると勧誘され、二十五歳から三十歳程度まで現役として活動する場合が多い。男女比は会によって違い、男だけの地区もある。
宮城さんは十六歳で越来青年会に入った。
目立つのが大好きだった宮城さんにとって、エイサーは格好の舞台だった。先輩の指導は厳しかったが、観客は全員が自分に拍手をしているように見えた。
エイサーは生き物だと言われる。受け継がれた踊りの型を守りながらも、その時代に合うよう若者が変えていくからだ。宮城さんも仲間と工夫を凝らしてアレンジし、伝統芸能の伝承者であると同時に、創作者でもある実感を味わった。
ただ、青年会の魅力はそれだけではなかった。
沖縄市は自治会活動が活発で、各地区の公民館には、自治会長や書記が常勤している。青年会も公民館が活動の場だ。エイサーのほかにも、自治会行事の裏方や、清掃活動、高齢者の手伝いなどを行っている。市の成人式ではボランティアとなって運営に関わる。先輩や仲間がにらみをきかしているので「成人式は荒れたことがない」(市生涯学習課、尾崎江利子課長補佐)という。
そうした地域活動をしていくうちに、宮城さんは公民館が大好きになった。人が集まって来れば、噂も集まる。「地域では毎日のように何かが起きます。取るに足らない出来事ですが、楽しくて仕方ありませんでした」。祖父母のような年代とも話す機会が増え、越来の歴史なども学んだ。そして青年会長を務めた。
だが、二十七歳で青年会長を退任すると、東京に出た。
後に妻になる女性が「一度来てみたら」と誘ってくれたからだ。女性は神奈川県出身で、東京の大学で卒論のテーマにエイサーを選び、現場を見に来るなどしたことから付き合いが始まった。定住するかどうかは別にして、沖縄には「一度は内地に働きに行く」という若者が多い。
宮城さんは生協に就職した。仕事は楽しかった。しかし、青年会の後輩から「市の青年団協議会を面白くできないか」と相談されて、二年で帰郷を決めた。青年団協議会は各青年会のまとめ役だ。沖縄に戻ってから五年間は副会長を務めた。
帰郷後に就職したのは求人雑誌で探した外壁塗装の会社だった。その後、エイサー関連の事業を行うNPO法人に引き抜かれて、さらに市観光物産振興協会へ移った。現在はラジオでエイサーの魅力を紹介しているほか、市が開設するエイサー会館の準備なども進めている。
女性とは沖縄に戻ってから結婚し、二人の子が生まれた。