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「人間は『意味の壁』をつくってしまって、見たいようにしか見ない」美術家・杉本博司インタビュー

アートな土曜日

2018/10/20
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杉本博司は、なぜ写真作品をつくるのか

 ここで不思議に思うのは、現物主義であるという杉本博司が1970年代に作品を発表しはじめて以来、ずっと写真を用いて創作を続けていること。なぜ写真なのだろうか。

「最初のきっかけとしては、自分がたまたま手にした技術を生かそうと考えたからに過ぎません。子どものころから手先が器用で、中学生時代からカメラをさわっていた。米国のアートスクールを出てニューヨークに住み制作をしようとしたとき、とくに深い考えもなく身につけていた写真の技術を使って現代美術をやろうと決めたのです。

 写真というメディアの持つ特性が性に合っていたともいえます。写真は、そこに写っていることが本当にあったことだと人に信じさせる不思議な力を持っています。証拠能力がひじょうに高い。それを逆手にとって、つくりものを真らしく見せる《ジオラマ》や《ポートレート》のシリーズを撮りはじめました」

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 ニューヨークのアメリカ自然史博物館のジオラマを撮ったのが《ジオラマ》シリーズであり、マダム・タッソー蝋人形館の人物像にライティングを施し、あたかも実在する者のように撮ったのが《ポートレート》シリーズである。

《ジオラマ》や《ポートレート》は「意図的に作られた心霊写真」

 人が内面で思い描くビジョンに、はっきりとしたかたちを与えるのにも、写真は適しているという。

「イマジネーションによって頭の中に浮かんでくるイメージを、多くの表現者は絵に描いたり詩にしたりするわけですが、写真はもっと、そのイメージをありありと表現できる可能性があると感じています。

 頭の中にあるイメージを、いったん外界というスクリーンに投影してみる。そうして『これが自分の見たビジョンである』と人に知ってもらうため、写真に撮って留める。写真による作品化とはそういう作業です。

杉本博司氏 ©黑田菜月

《劇場》シリーズでいえば、映画館の中に浮かび上がる映画1本分の白いスクリーンというのは、私の頭の中の想像では、すでによく見えている。でも、それを口頭で話すだけでは人にわかってもらえないので、実際に写真に撮ってみて『ほら、こうなるでしょう?』と示すために作品化する。

《ジオラマ》シリーズなんかもそう。つくりもの、すなわち死んでいるものが、ときに私の頭の中ではまるで生きているように見えることがある。それはどういう感覚であるかを人にはっきりと示すためには、ジオラマという死んだものを生き生きと撮って見せるしかないのです。

 よく聞かれます、なぜ《ジオラマ》や《ポートレート》が、あれほど生きたものとして写し取れるのかと。それは、私自身には生きているように見えているから。私に生きているように見えていなかったら、そうは撮れないですよ。そこにあるものとは違うものが見えている・写っているという意味では、これら私の作品を心霊写真と呼んでもらってもいいでしょう」

 なるほどこれらを「意図的につくられた心霊写真」であると捉えることもできるのだ。