リアリティの表層に惑わされてよく見えていないものを撮る
ならば、目に見えないものを撮っているのが杉本博司作品である、そう定義していいだろうか。
「見えないものを撮っているというよりは、見えにくいものを見えるようにしている。それが私の写真ということになりましょうか。
ふだんはリアリティの表層に惑わされてよく見えていないものが、世にはたくさんありますね。人間はすぐに『意味の壁』をつくってしまって、ものを自分の見たいようにしか見ない。目に映るがままに見ているということはまずないのです。
さらには、みんなが共通して見ている共同幻想みたいなものも、根強くあります。それによって言語の体系や社会が成り立っているのですから、ある種必要なものではあるのでしょうが、そういう環境に浸っていると見えにくくなるものもまた多い。
さまざまな要因で見えにくくなっているものを、写真で作品をつくることによって見えるようにしているわけです」
作品を説明する「論理」は往々にして捏造に近い
言葉も「ありのまま見ること」の壁のひとつになっているというが、杉本博司には著書も多くあり、各作品のコンセプトはばっちり言葉でも説明されている。言葉とビジュアル作品の関係についてはどう見ているか。
「私が文章を書きはじめたのは50歳を過ぎてからですけれど、言葉にすることで気づくものは多いですよ。そもそもニューヨークなどでアーティストをやっていると、ちゃんと自分の作品について語らねばならないという説明責任みたいなものが付いて回ります。
日本人同士だと『黙して語らず』というのでいけることもありましょうが、あちらではそういう態度は通用せず、論理的な武装をしないとだめということになる。
ただそうした論理というのは、往々にして後付けだったりしますが。まず作品ができて、あとから言葉をひねり出す。まあ捏造に近いものです。それはそうですよ、ものをつくるときは直観に導かれてつくるのであって、最初に言葉があってつくるわけじゃありません。立てたコンセプトに沿って、理路整然とアートができていくわけなどないのです。
直観とビジョンがまずは先に立つ。そこから制作を具体的に進めていくうえでは、言葉も利用価値の高い道具になっていくというところでしょうか」