なぜ人物の顔や姿も、モニタを介してしか描かれないのか?
ここまでの事件の導入部だけで、傑作ミステリーの予感がする。SNS以前の時代であれば、残された手紙や日記などで失踪した人物の痕跡を辿ることになるが、本作ではそれがすべて、ネットワーク上に点在するテキストや動画、写真によってなされているのだ。
PCの外側のリアルな世界ではなく、内側に残された情報から素顔がわかってくるという皮肉。
それを表現するのに、デビッドの一家が韓国系アメリカ人であることも効果を上げている。我々日本人もそうだが、アジア系の人は無表情で、内面の感情がわかりにくい、とよく言われる。あたかも仮面(アバター)をつけているように。
さらに、本作では登場人物のモノローグが一切出てこない。人物の顔や姿も、モニタを介してしか描かれない。モニタを覗く人物の後頭部すら写さない。
それによりSNSで繋がった今の社会、今の家族、今の人生というものがリアルに浮かび上がってくる。彼らはSNSやチャットを使い、PCを介して繋がっている。その繋がりが途切れることは一時もない。しかし、PCの外側のリアルの世界では、家族や友人とすら繋がっていない。ある場面で葬儀のシーンが登場するが、死に対面するというリアルな状況も、PCを介したネットの動画で描かれる。
捜査が進展し、マーゴットが乗っていた車が湖で発見される。しかし、マーゴットはみつからない。ここから事件は予想できない方向に転がっていく。
デビッドはさらに新たな“素顔”に直面せざるを得なくなる。
動揺やためらいがPCの画面で再現される凄さ
そんなデビッドの動揺やためらいも、PCの画面で表現される。ダイアローグの画面の「OK」と「キャンセル」のボタンの間を、行ったり来たりするカーソルの動きだけで、デビッドの気持ちが伝わってくるのだ。
ヒッチコックは、『サイコ』のシャワールームでの殺害シーンを、数十ものカットをコラージュして、世界を驚かせた。ネットの情報は、それぞれが点でしかない。それらを関連付けて文脈をつくり、ひとつの線にして初めてドラマが生まれる。それがストーリーテリングだ。本作が凄いのは、カーソルや文字、アイコン、写真、広告、動画、それら断片の情報をカーソルの動きやクリック、ウィンドウのオンオフ、スクロール、ドラッグ、拡大や縮小、文字入力やアイコンのアニメーションのリズムといったPCでおなじみの動きをうまく使って、コラージュしているところだ。それらを関連付けて、ドラマを生むストーリーテリングに成功している。まさにSNSの時代の『サイコ』だ。
やがてデビッドは驚くべき真相に辿り着く。
真犯人は誰だったのか?
事件そのものをミスリードしていたのは誰だったのか?